第二十八話 星々に抱かれて

 どこからか、小鳥の囀りが聞こえてくる。

 木々の騒めき、そして水の流れる音が辺りに広がり、ガイルはゆっくりと重い瞼を上げた。

 光を受けて輝きを取り戻したルビーの瞳に、不安げな表情を浮かべながら覗き込む一人の少女が映る。真っ白な空間で聴こえてきた、あの歌声の主である、少女の姿が——

「セ……レナ……?」

「気が付いてよかった……ガイル」

 セレナは大きな瞳を潤ませながら、岩場に横たわったガイルの、泥だらけの手を強く握っていた。

「ったく、この子ったら声が枯れるまで歌ってたのよ!セレナが歌えなくなったら、アンタが責任取りなさいよネ!」

 彼女の頭の上で、おしゃべりな小鳥の娘がピィピィと騒ぎ立てる。

(そうか……セレナの歌が、俺を幻から目覚めさせてくれたんだ)

 有難う。そして、ごめん……

 今のガイルにはそれしか伝えることが出来なかった。

 けれど少女達は、いつまでも晴れない彼の表情から何かを察し一言だけ「大丈夫だよ」と返したのだった。

 

 セレナの細腕に支えられ、ようやく立ち上がったガイルは、ふと辺りを見回す。

 先程まで居た緋色の空間は跡形もなく消え去り、何事もなかったかのように、元の緑あふれる森の姿へと戻っていた。

 滝口から勢いよく流れる水流に、滝壺の周囲に散る飛沫によって作られた鮮やかな光彩。その繊細かつ生命力あふれる雄大さは、初めてこの場所を見つけた時と変わらぬ感動をよみがえらせる。しかし、肝心の義兄の姿はそこにはない。

 首元と背中に激しい痛みを感じ、撫でる様にして手を添える。

 全て幻だったのだろうか。緋色の世界の住人も、そこで交わされたやり取りも、悲痛な叫びも——

 ガイルは、あの光景が幻であってほしいと思う一方で、事実であるとしたなら、自身の旅の目的を必ずや果たさなければいけないと、決意を新たにするのだった。

 

「ところで、これがホンモノの願いの滝なの?」

 雲の隙間から覗く僅かな青が、水鏡に反射し澱みに空を描く。ピィチの甲高い声は、轟きの中でも掻き消されることなく二人の耳に無事に届いた。

「意外とあっさり辿り着けたわねえ。何十年も掛かるんじゃないかって不安になっちゃったじゃない!それにしても、キレイな所だけど案外普通なのね?もっと、こう、豪華で派手なのを想像してたわアタシ!」

「そうだねピィチちゃん。私たちはきっとすごく運が良かったんだと思う。それでも……たとえ運だとしても、見つかって良かったよねガイル」

「あ、ああ……そうだな」

 セレナに問われ若干口籠るガイル。セレナは、そんなガイルをよそに、徐に瞼を閉じて手を合わせた。

「私、シェリルちゃんの病気が治るように、お祈りしようかな」

「えっ!?セレナ、お前本当に良いのかよ……」

 ガイルは、予想もしていなかったその発言を受けて、思わず目を丸くした。しかし、今度は彼女の頭の上で、ピィチが鶯色の翼同士を重ね合わせた。

「じゃあ、アタシはマリンが元気になるように願いするわ♪早くいつものあの子に戻りますよーに!」

「お前ら……」

 ガイルは、小さくため息をついた後、口元を緩ませた。

「じゃあ、俺は……秘密にしておこうかな」

「ハアッ!?」

ピィチが思い切り身を乗り出す。

「ちょっとなによヒミツって!?はっきり言いなさいよいやらしいわね!」

「べ、別に良いだろ!!こう言うもんは口に出したら叶わねえんだよ!」

「何なのよそれー!?」

「もう!!二人とも、お願いが終わったなら早く帰らないと、日が暮れちゃうよ!」

 毎度の如く、突如口争を始めたガイルとピィチを諫める様にして、セレナが帰還を促した。

 

 木々の間からふと見上げた空は、いつの間にか鮮やかな緋色に染まっている。森全体を覆っていた靄はすっかりと晴れ、子供達の賑やかな帰路を、差し込む夕日が明るく照らしていた。

 ガイルは、少女達と再会するまでに起きた出来事を、心に留めておくことにした。

 いつか、全てを打ち明けなければいけない日が必ずやってくる。その日までの戒めとして。

 

 

「あ!お姉ちゃんたち帰って来た!」

 ポーチに面する窓辺から外の様子を窺っていたシェリルが、暗闇の中でランプの灯りにぼんやりと照らされた探索隊の姿を目にするや否や、玄関の扉を元気いっぱいに開け放った。

「ただいま」

 迎えられた子供達は、外套の元の色が分からなくなるくらいに泥だらけで、ガイルに至っては、まともに立っていられるのが不思議と思えるほどに負傷している。

 しかしそれすら忘れさせるような、今朝とは全く異なるシェリルの様子に、セレナとガイル、そしてピィチも、少女につられて満面の笑みを浮かべるのであった。

「おかえりなさい、本当に……おかえり」

 エリーゼが、セレナとガイルをのボロボロの体を、二人いっぺんに抱きしめた。

「心配かけてごめんなさい、エリーゼさん」

 セレナが腕の中から、彼女の潤んだ瞳を見詰めた。

「必ず帰ってくるって信じていたから……それなのに、おかしいわ。こんなに涙が出るなんて。娘に笑われちゃう」

 うさぎのぬいぐるみを抱えながら、その光景をじっと眺めている娘に気付いたエリーゼは、ふわりと優しい笑みを向け涙を拭った。

「さあ夕飯にしましょう。みんなお腹空いたでしょう?」

 徐に立ち上がるエリーゼ。

「あ、その前にまずお風呂よね!それとも私?なんて……ふふ、冗談よ。今支度してくるからシェリルを見ていてちょうだいね」

 そう言い残しパタパタと足早に去ってゆくエリーゼの背を目で追いながら、子供達は呆気に取られていた。

 そして、疑問符を浮かべるセレナの隣で、ガイルがぽつりと呟いた。

「あれ?あの人ってこんなキャラだったっけか……」

 

 

 チーズとベーコンをふんだんに使用した大判のピザに、真っ赤なトマトが鮮やかなシーザーサラダ。シェリルの大好物でもある、ホワイトソースの掛かった手作りハンバーグに、デザートには木苺のミルフィーユ。食卓には、エリーゼが腕によりを掛けて拵えた、素朴でありながらも豪勢な料理の数々が並んだ。

 兎に角腹を空かせていた子供達——主にガイルとピィチは、それらをほぼ飲み込むようにして空っぽの胃の中に放り込んでおり、手を止め目を丸くしているシェリルを見かねたエリーゼに、ちゃんと噛むようにと何度も注意を受けていた。

 ゼロムは離れた場所にある長椅子に腰掛け、一人で食事を取っていた。

 子供達は、テーブルから楽しそうに料理を運ぶシェリルと、隣にちょこんと座る少女と親しげに接しているゼロムを眺めながら、彼の中で芽生えた何かしらの変化を感じ取ったのだった。

 マリンに関しては結局寝込んだままで、リビングに姿を見せることはなかった。未だ完全に熱が下がってはいないものの、エリーゼと、様子を窺いに寝室を出入りしていたセレナによると、昨晩よりは良くなってきてはいるらしい。

 

 食事も終え一息ついたところで、リビングにはセレナとガイル、そしてエリーゼが残った。二人は、森の中での出来事を、どうしても彼女に伝えたかったのだ。

 人の心を惑わす幻、そこで見た思い出の場所。そして、願いの滝の事も。

 エリーゼは終始驚いた様子で、二人の話に聞き入っていた。何よりも、この村へやってきた誰しもが辿り着けなかった、実在するかもわからない場所を、たった半日程度で発見し、そして無傷ではないにしろ無事に帰還した子供達に。

 しかし彼女は、自身にとって伝説の滝の有無以上に、聞かねばならない大事な思いがあった。夫と思しき人物を見なかったか——と。

 その唐突な問いに、セレナとガイルは首を横に振ることしか出来なかった。

「そうよね……ふふ。ごめんなさいね。そして有難う。小さな勇者さんたち」

 エリーゼはそう言い残すと、自室へと去ってゆく。

 二人は、去り際に見せた彼女の表情から、微笑みの向こう側に潜む蟠りが未だに拭いきれていないことに気付いて、やるせない気持ちになった。

 

 

 雨雲の去った夜空を数多の星屑が彩っている。頬を掠める風はひやりと冷たく、砂漠の案内人セティと過ごした、あの賑やかな夜を彷彿とさせた。

 ポーチに設けられた木の階段に座り、そんな夜空を眺める影が一つ。ガイルだ。

 彼は数え切れない星々を仰ぎながら、これまでの出来事を思い返していた。しかし、彼の小さな脳みそでは整理しきれない出来事だらけで、それが中々寝付けない原因となっているのだった。

「ガイル……眠れないの?」

 名を呼ぶ声のする方へ徐に振り返るガイル。そこには、外套を纏い戸の隙間から外の様子を窺うセレナの姿が有った。

「セレナ……」

 セレナは静かに戸を閉めると、ガイルの隣に春風の様にふわりと腰掛けた。

「お前こそ寝ないで大丈夫なのかよ?明日には出発するかもしれないんだぞ」

「うん、私は少しくらいなら平気。魔力も戻ってきたみたいだし」

「そうか……」

 

 木々の騒めきと、小川のせせらぎ。どこからともなく響く虫たちの歌声。二人は、女神ルナーに感謝しつつ、ただただ静かに夜風に身を委ねていた。

 

「セレナ、俺さ——」

「なに?」

 ふいに名を呼ばれ顔を上げたセレナの瞳に、神妙な面持ちのガイルが映る。

「あの時……願いの滝の前で、兄貴に会ったんだ」

「えっ……?」

 突然の告白に、セレナのエメラルドグリーンの瞳が、大きく見開かれた。

「いや、もしかしたら、それも夢か幻だったのかもしれない。けど……そこで喧嘩になって、その時の痛みが今も残ってるから現実だったんだと思う。バカな話だよな?こんな所まで来て兄弟喧嘩なんかしてさ」

「……」

「言いたい放題言われて……でも否定は出来なくて。結局何の進展も無いまま、また離れ離れになっちまった」

「そうだったんだ……だから……」

「セレナは——」

 戸惑いに目を伏せていたセレナが、再び顔を上げる。そこには、活気と正義感あふれるこれまで彼からは想像もできないような、切なげな表情を浮かべた一人の少年の姿が有った。

 ガイルは、体を丸め、生気を失ったようにぼんやりと一点を見詰めながら呟いた。

「怖くないのか?この旅が……」

「え?」

「俺は正直、怖くて怖くて、逃げ出したくなる時がある。こんなことを言ったら、嫌われちまうかもしれないけど、正直な気持ちをいつまでも隠していたくないんだ。この旅が本当に上手くいくんだろうかとか、ただがむしゃらに、成り行きに任せていて平気なんだろうか、とか。だからゼロムと口論になったとき、もっともなことを言われて、俺は向き合おうともしないで殴り掛かったんだ。……こんなに無鉄砲で弱い俺が、セレナ達を守れる訳がない——」

「あのね」

 ガイルの嘆きを遮る様に、セレナが口を開いた。

「私、ガイルがマリンちゃんに言った言葉、今でもちゃんと覚えてるよ。時には手を借りることも大切だって。ガイルは一人で背負い過ぎてるんじゃないかな。それはたった一人の役目じゃない。私だって、みんなを守れる力がほしいよ。どんなに強い魔法を使えたって、弱い心に惑わされるときはある。それでも……私がここまで来られたのは、あなたがそばに居てくれたからなんだよ」

 セレナは、震えるガイルの背を、優しく抱きしめた。

「皆が皆、簡単にわかりあえるわけじゃない。だから争いが起きて、世界が廻って、私たちがここにいる。あなたはあなたのままで良いんだよ。……きっといつも前向きなガイルのことだから、凄く悩んだよね。……伝えてくれて有難う」

 折れそうな程に細い腕の中で、込み上げる感情がガイルの頬を静かに伝った。

 

 

 ——セレナ、お前は……十分強いよ——……

 

 

 降り注ぐ星光に抱かれ、二人の時間はゆっくりと過ぎてゆく。不安や迷い、恐れや痛み、全てが無意味に思えるほどの、静穏な夜。

 新たな明日を迎えるのが楽しみでもあり、このまま、平穏なまま時が止まってしまえば良いのにと、そんなジレンマさえ感じさせる何故だか物悲しい夜でもあった。