第二十九話 新しい朝

「おはよう。」

 

 けろりと、マリンが朝食時のリビングに顔を見せた。

 彼女は目を丸くする仲間達のそばを涼しい表情で通り過ぎると、セレナの隣の空席に徐に腰を掛ける。

「あら、マリンさんおはよう。だいぶ良くなったみたいね」

 キッチンで作業をしていたエリーゼが、澄み切った朝空のような爽やかな笑みを浮かべながら、彼女のぶんの料理を運んできた。

「おかげさまで!色々と有難うございました、エリーゼさん。あ、さっきお風呂借りたので」

「ふふ、気にしないでちょうだい。それにしても、あなたともちゃんとお話しできてよかったわ。こんなにもはつらつとした、可愛らしい方だったのね」

「やーだもー!エリーゼさんったら本当のことを!」

「…………」

 そのやり取りを笑顔で眺めるセレナと、真顔で眺めるガイルとピィチ。

 マリンは、テーブルの反対側から送られる意味有り気な視線を他所に、運ばれたミネストローネを上品に口に含んだ。

「……なあ、マリン」

 ナプキンで上品に口元を拭い、目の前にあるサラダに手を付けようとしたところで、ふいに名を呼ばれた彼女はようやく顔を上げて相手を見やった。

「なあに?ガイル」

「あのさ、熱はもう平気なのかよ。って、どう見ても平気そうだけど……ほら、もし再発するような病気とかだったらマズいから、もう少し様子を見ても良いんじゃないかと思ってな」

「えーとお、多分その辺は心配ないわ」

「はっ?」

 なぜか突然、頬を赤らめながら口籠るマリン。

「病気って言っても、まあ、なんて言うのかしら……ほら、あたし無限の砂漠で……そのお、セティにあんなコトやこんなコトされたじゃない?」

「あ、あんなコトやこんなコト……??」

 歯がゆさから眉を顰めるガイルの脳裏に、砂漠での別れ際に起きた出来事がぼんやりと甦る。

「ええ。なんだか、あの後から変になっちゃったのよねえ、あたし……」

 別れ際に"お礼"の名目でされた、指先へのキス。そう言われてみれば、あの時のマリンの様子と言ったら只事ではなかったような——

 しかしガイルは、思い出に浸り夢見がちに語る少女へ、氷の様な冷ややかな眼差しを向けた。

「まさか……病気って俗に言うあの、恋の…………マリンお前なあ、俺らが一体どれだけ心配したかわかってんのか!?大して体重の違わねえお前を担いで森の中を走り回ったこっちの身にもなってみろ!!」

 血相を変えたガイルが、身を乗り出して激しく言い募る。

「きゃーガイルこわあい。セレナ助けてえ」

「ガイル、あんまりマリンちゃんをいじめないでよ。病み上がりなんだから」

「セレナ、ちがっ、おまっ、ずりーぞてめえっ!!」

「いや~ん」

 顔を真っ赤に染めて、今にも飛びかからんばかりの勢いのガイルを、セレナの背後に身を隠しふざけ半分にあしらうマリン。

 そんな騒々しさを取り戻した食卓で一羽、サラダに添えられたスイートコーンをつつきながら、小鳥の娘は頷くようにして呟いた。

「マリンって、意外とウブだったのねえ……」

 

 

 

「お世話になりました!」

 広がる青空の下、森の中の小さな小さな村に、子供達の元気な声が響き渡った。

 前日までの雨雲はとうに去り、視界を遮る靄も晴れ、改めて見渡してみると、はじめてこの場所へ訪れた時とは全く違った印象を与えるほどの、質素でありながらも素朴で、とても温かみのある村であった。

 北部へ抜ける林道との境界で、偶然やってきた若き旅人達一人一人と、長いハグを交わすエリーゼ。子供達は、涙声で別れを告げる彼女の優しくも力強い抱擁を受けながら、遠い所へ行ってしまった母の温もりを、それぞれ静かに感じ取っていた。

「まだ森は続いているわ。あなた達なら心配はいらないと思うけど……いってらっしゃい。体を壊さないようにね」

 微笑むエリーゼと、うさぎのぬいぐるみを抱きしめ俯くシェリルに見送られ、一行は思い出の村を背にする。しかし直後、後方を歩いていた行商人の変化に気付いた子供達は、足を止めて男の方へ振り返った。

「何してんだよ。おいてくぞ」

「いや……アッシは……えーと……」

 立ち止まり、ガイルの問いに目を泳がせるゼロムに、顔を見合わせる少女達。

「……」

 僅かに停止していた時の流れを動かしたのは、一行の背を見守っていたエリーゼの一声であった。

「ゼロムさん、もう少しだけゆっくりしていったらどうかしら」

「えっ……」

「ここには空き家もあるし、畑も水もある。贅沢は出来ないけれど、生活には困らないわ。それに伝説の願いの滝だって、すぐ近くに有るかもしれない……何より——ふふ、シェリルがあなたをすごく気に入っちゃって。もう少しこの子の遊び相手になってくれないかしら?迷惑でなければ、だけれど……」

「あ、アッシは……」

 降ってわいたようなエリーゼの提案に、徐に顔を上げたゼロムと、彼女のスカートの陰に隠れていたシェリルの目が合う。

 少女の黒目がちの瞳がじわりと滲み、戸惑うゼロムを捉える。

「…………」

 男の脳内を、様々な思いがぐるぐると渦巻く。

 帝国へ向かうのが、自身の真の目的。帝国入りし、闇ルートから格安で手に入れた商品を得意の話術で売りさばき、ぼろ儲けして優雅な生活を送る……それが、貧困層に生まれ育った自身の幼い頃からの夢であり、成果を得る為なら、命にかかわるような危険な仕事にも自ら手を染めることも珍しくはなかった。

 年を重ねるにつれそういった生き方が当たり前になってゆき、生き甲斐にすらなりつつあった。こんな小さな村で足止めをくらっている暇なんてないのだ。

 しかし、何故こんなにも心が揺らぐのだろう。シェリルが不治の病だから?エリーゼに頼られているから?

「アッシは……その……その……」

 エリーゼと、足を止め決断を待つ子供達に見守られ、ゼロムの拳が強く握られる。

 そんな彼の汗ばむ手を、いつの間にか、柔らかな感触が包んでいた。

「おじちゃん、いかないで……」

「お、お嬢っ……」

 シェリルの小さな手から伝わる温もり。それは、どんなに苦労して手に入れた最高級の織物よりも温かく、今にも零れ落ちそうな目尻の雫は、今まで目にした高価で煌びやかなどの宝石よりも澄んでいた。

 その透明な雫が頬を伝ったとき——

 揺らぐゼロムの心は、ようやく繋ぎ止められたのだった。

「……か、勘弁して下せえお嬢……」

 そう一言呟いた後、ゼロムは少女の目線に合わせるように腰を落とし、ポケットから取り出した布切れで、そっと涙を拭う。

 それが、彼なりの答えであった。

 

 

 

 樹枝の隙間から差し込む朝日が、木陰となって地面に色を付ける。

 寄り添う木々の間を縫う様にして吹き抜ける風は、昨日の雨によって多少湿気を帯びてはいるものの、全く不快さを感じさせない優しい空気を運んでくる。その風に身を任せ、軽やかに揺れる青々とした樹葉。それらの奏でる音楽に後押しされて、子供達の歩くペースは、見慣れぬ森の中でも一向に衰える気配はなかった。

 むしろ、いつもの活力を取り戻した子供達にとっては、楽しい遠足の様にも感じられる程である。

 そんな談笑が飛び交う道中で、ふいに思いを口にしたのは、マリンであった。

「ねえ、ところで、本当によかったの?」

「どうしたの?マリンちゃん」

 セレナが、隣を歩いていた彼女を改めて見詰めなおす。同時に、少女達の前に居たガイルも、足を止めてそちらへ振り返った。

「ゼロムのことよ!」

「ああ……まあ、大丈夫なんじゃないか?」

 訝しげに尋ねる彼女の心中を察したガイルが、端的に答えた。

「へ?……だってあいつってば別れる間際に『勘違いしないでくだせえ、アッシがここに残る理由は滝が目当てだからで——』とか言ってたじゃない!あたしはねえ、"村に置いてきた"あいつがエリーゼさん達にヘンなマネでもするんじゃないかって心配で心配で……」

 良からぬ妄想を膨らませ、小芝居を交えながら力説するマリンに、セレナとガイル、そしてピィチは顔を見合わせて一斉に噴き出した。

「なによ……」

 真剣に話していたつもりが、なぜか皆の笑いの的にされてむっとするマリン。

「きっと大丈夫だよマリンちゃん。私にはわかるの。ゼロムさんは、この旅で生まれ変わったんだと思うよ」

「う、生まれ変わった……??」

 セレナの言葉に、今度は目をまん丸くするマリン。

「ま、まあ。よくわかんないけど、セレナが平気だって言うんなら……」

 それでも、その言葉の真意を理解しきれずに、なんとか探ってやろうと考え込む彼女を横目に、願いの滝探索隊の三名は満面の笑みを交わしあうのであった。

 

「あ、そういえばセレナ、あの時……」

 そんな最中、ガイルは、ふと沸いた疑問をセレナにぶつけた。

「あの時どうして、滝の場所がわかったんだ?」

「滝の場所?」

 突然の問いに、僅かに首をかしげるセレナ。

「違うよ。私が"聞いた"のは、滝じゃなくてガイルの場所」

「は……?どういう……」

 言うなりセレナは、大きく瞳を見開くガイルの隣で、耳元に手を当てて静かに瞼を閉じた。

「森に聞いたの。ガイルの居場所を。そうしたら、森はちゃんと応えてくれて、私をそこまで導いてくれた。ほんの少し迎えに行くのが遅くなっちゃったけどね」

「セレナお前……そんな力があったのか」

 微笑むセレナに、憧憬の眼差しを送るガイル。しかし彼は、彼女の返答を受けて、更に湧き出た疑問を投げかけたのだった。

「そんな力が有るなら、行方不明になった村の人とか——エリーゼさんの旦那さんを探すこともできたんじゃないのか?」

 彼の質問に、セレナは小さくかぶりを振った。

「もちろんやってみたよ。帰り道で。けれど……森は何も応えてくれなかった。それは多分、きっと……」

「そう……か」

 ガイルは、目を伏せるセレナの頭を、優しく撫でてやった。しかし、彼女に触れたその瞬間、彼はふとあることを思い出し、勢いよく手を引っ込めた。

 なぜか赤面しているガイルに向けられた、セレナのエメラルドグリーンの瞳が、何事かと丸くなる。

「ちょっと、何がしたいのよ」

「い、いや、その……」

 セレナの肩の上から、ピィチの鋭いツッコミをくらって、目を泳がせるガイル。

 そこに、浮いた話が大好物なマリンも加わって、少女達の視線を一身に受けた彼の額を、それこそ滝の様な大量の汗が流れ落ちる。

 

 昨晩、セレナと過ごした一時。

 降り注ぐ星々の下で交わした会話、折れそうな程に細い腕から伝わる優しい温もり——

 

 ちらりと、ガイルはセレナを横目で見やった。当の彼女はというと、未だに疑問符を浮かべながら自身の顔を見詰め続けている。

 どうやらこの調子だと、昨晩のことなど忘れているようだ……

 ガイルはほんの少し落胆しつつも、ほっとしたように胸を撫でて平常心を促した。

 守ると誓った相手に、あんなにも情けないところを見せてしまった——彼は、セレナとの二人きりの時間が本物であってほしいと思う反面、森が見せた優しい幻であってほしいとも、心の片隅では願っていた。

 しかしその願いとやらは、セレナ自身によってすぐさま打ち消されることとなる。

「あ!そうだガイル。私も言い忘れてたんだけど……」

「ん?なんだよセレナ」

「昨日は、泣かせちゃってごめんね」

「へ……?」

 セレナを除く、全員の目が点になった。

「悲しませるつもりはなかったんだけど、私、酷いこと言っちゃったかな?」

「…………」

 勿論、真剣な面持ちで語る彼女に、自覚などない。

 戸惑いがちに目を伏せるセレナと、再び顔を真っ赤にして狼狽するガイル。明らかに様子のおかしい二人を、はしゃぐマリンと怒るピィチが、それぞれ違った口ぶりで問い詰めた。

 

 

 賑やかな林道に、一陣の風が吹き抜ける。

 深い森に忽然と現れた小さな村、そこで出会った心優しき女性エリーゼと、不治の病を患う少女シェリル。

 セイル=フィードに数多く残る伝説の一つとしてと謳われていた"願いの滝"の存在、そして、そこで目にした光景。

 この森で起きた全ての出来事は、夢でも幻でもなかったのだ——

 

 出逢い、去りゆく者、支えあい励ましあう者、守り守られる者、喜び、悲しむ者。

 たった数日の間に、子供達の心は大きく揺れ動いた。しかし、旅はまだ続いているのだ。

 向かうは北方、帝国グランデュールへ。立ちはだかる山脈地帯を越えて。