第二十七話 緋色の世界で

 風の音、水の流動、木々の騒めき、全てが停止した森閑な空間に取り残されたガイルとロア。

 靄掛かり薄白とした先程までの世界とは打って変わって、いつの間にか、じきに来る夜の訪れを感じさせるかのような、柔らかな夕日色が辺りを染めている。ほんのりと温かみを感じさせるその緋色は、なぜか懐かしさすら感じさせる程に、心に染みわたる情景を作り出していた。

 忽然として訪れた今までとは全く異質な雰囲気に、ガイルは勿論のこと、あのロアですらも思わず身を起こして目を白黒させる。

 しかし、すぐさま自我を取り戻したロアは、ガイルへ鋭い視線を向けた。

「おい、てめえ何しやがった」

「お、俺は何もしてない……」

「まあ……そうだろうな。お前ごときがこんな術使えるワケねえもんな」

 ようやく退いた義兄からその身を解放されたガイルは、痛む個所を抑えながら立ち上がり、状況を纏めようと考えを巡らせた。

 そして、先のやり取りで放った自身の言葉を思い出し、ハッとするのである。

 

 俺の願いは兄貴の過去を知りたいんだ——

 

 まさかと、彼は後方から義兄の背中を見やった。その思惑が正解ならば、突如現れたこの空間の正体も、自ずと理解ができた。

 怪訝そうな面持ちで辺りを注視している、ガイルにとって血を分けた唯一の家族である魔族の男ロア。しばらくふらふらと岩場を歩いていたロアだったが、ガイルの見詰める前で、行き成り赤く変形した右の手から漆黒の炎を作り出すと、緋色に色付く森の方へ向けて勢いよく放り投げた。

「お、おい!!何してんだよ兄貴!?」

 予想もしない出来事に、驚愕するガイル。ところがロアの黒炎は、木々に触れる直前で、何処かの空間へと音もなく消え去ってしまった。

「クソッ!!何なんだよここは……!」

 苛立ちを露わにするロアと、胸を撫で下ろすガイル。

 しかし、義兄のその行動にガイルは聊か違和感を感じていた。滝の噂を知っていたとすれば、攻撃の対象は森ではなく滝の方ではなかっただろうか。炎の相対属性は水。だからとはいえ、先程からその姿を目で追ってはいたが、ロアは滝などにはちっとも関心が無い様子である。

(兄貴のやつ、もしかして願いの滝自体を知らないんじゃ……?)

 もしそうだとしたら、それは彼にとって至極幸運なことであった。

 ロアの願いである“竜人族への報復”が、滝の力によって簡単に叶ってしまったら、全てが終わってしまう。ガイルは、それだけはどうしても避けたかった。

 兄の抱いていた願いを受け止めるのは、唯一の弟である自分自身であってほしかったから。

 

「……?」

 

 落ち着かない様子で歩き回るロアと、静かに俯き思いを巡らせていたガイル。対照的な義兄弟が、ふいに同時に頭をあげた。

 微かにではあるが、何処からともなく音がしたからだ。

 その音は徐々に二人のもとへと近付いてきており、彼らは直に音の正体を知ることとなる。

「子供……?」

 ガイルがポツリと呟く。彼の言葉の通り、三人の小さな子供達が、何もない空間から姿を現したのだ。良く見ると皆尖った耳をしており、笑顔からこぼれる白い歯には牙を備えている。

 子供達は楽しそうにはしゃぎながら、呆然と立ち尽くす二人の前をまるで空気のように駆け抜けていった。

 やはりと、心の中でガイルは確信した。

 ここは自身の願いによって生み出された過去の世界。竜人族の集落が襲撃される以前の世界なんだ——と。

 

 ロアは狡猾であり、状況の判断ができないほど頭が悪い訳ではない。

 何者かの魔法だろうと術だろうと、子供達が去っていった直後にこの空間の意味を理解した彼は、押し黙ったまま表情を強張らせた。

 何かを探る様にして、目尻の切れ上がった瞳を鋭く光らせ周囲を見回す。なぜなら一刻も早く、この空間を操る主の息の根を止めたかったのだ。

「今度は、なんだ……?」

 ガイルが再び音のする方へと視線を向ける。彼の視線の先、草叢から徐に現れたのは、一人の少年だった。

「——ッ!!」

 その姿を目にしたロアは、瞠目し絶句した。これまで見たこともない、義兄のらしからぬ表情に、彼を横目で捉えていたガイルはすぐさま感付いた。

 砂色の髪に真紅の瞳、背には小さな黒の翼をもつ少年。

 先程の子供達と同い年くらいだろうか。整った顔立ちをしているが、体中に目立たない程度の無数の傷があり、片腕にできた痣を抑え俯きながら歩みを進めるその様は、見ているこちらまで言葉を呑むほどに痛々しい姿であった。

(こ、これが子供の頃の兄貴だっていうのか?今と全然違うじゃないか……)

 覇気のない弱弱しい姿。ガイルはこの少年が義兄とは聊か信じ難かった。

 しかし、隣で立ち竦んでいるロアの様子からして間違いはないだろう。そして、再び現れた先程の子供達の言葉によって、彼の思惑は確信へ繋がるのであった。

 

『やーい、またきたぜコイツ!』

 二人の目の前で、子供達が黒翼をもつ少年の周りに群がる。

『ついて来たっていっしょに遊ばないぞ!とおちゃんに言われてんだ、ロアと遊んじゃだめだってな!』

「……」

 目の前で繰り広げられる一方的なやり取りを、静かに見入るガイルとロア。

『おまえのかあちゃんはヘンな魔法をつかって王さまとケッコンしたんだろ?きっもちわりー!!』

『もうこっちくんなよな!おれたちにまで悪魔のはねがはえちまう』

 そう言い放つと、子供達は笑い声を響かせながらその場を走り去っていった。

 

 再び訪れた静寂の空間に残された三人。

 じっと堪える小さな義兄を見守っていたガイルの胸を、居たたまれない気持ちが支配する。

 これが本当に、自身の知りたかった兄の過去なのだろうか——

 自責の念に駆られ逸らしたガイルの視線の先に、その光景を見詰めるロアの姿が映った。彼は無言のまま表情一つ変えずに、幼き日の自身の姿を見やっている。しかし、握られた拳は、込み上げる感情を押し殺しているのか、小刻みに震えていた。

 ガイルは、兄を巻き込んでしまったことを後悔した。だが一方で、ある疑心が芽生えた。

 なぜ、自身の願いに兄が巻き込まれたのだろう——?

 訪れた者の願いをたった一つだけ叶える、それが古からの滝にまつわる言い伝えだ。たとえこれが他人によって作られた世界だとしても、ロア自身にもう一つ別の、真の願いが有るとしたら、今ここに共に存在するのはおかしい。なぜなら、たった一つしか叶わぬはずの願いが重複してしまうから。

 ガイルは次の瞬間、ふとある事を思い出してハッとした。

 滝を見つける前にセレナ達と見た、リースの森の幻覚。

(この状況……あの時と同じ……?と言うことは、この世界は滝の力でもなんでもない……たんなる幻覚?)

 ガイルの脳内を、未だ晴れぬ疑惑が渦巻く。リースの森の幻覚に関しては、その場に居た誰しもが作り出すことのできるものであったから不思議ではないにしろ、この緋色の世界——幼い頃の兄、そして子供達とのやりとり、自身の知り得ないものばかりで構築された世界。

 ここへきて彼はようやく、この世界の意味を把握したのであった。

 

(そうか、これは兄貴が作り出した幻なんだ……)

 

「おい……誰だか知らねえけどそろそろいい加減にしろよ……!!」

 誰へ向けた訳でもなく、ロアがぼそりと呟いた。

 直後、先程とは段違いの魔力を纏った黒の炎を、座り込んでいる過去の自分へ向け放つ。しかし、やはり炎はその身を擦り抜けるようにして、何もない空間へ消え去っていった。

 少年ロアは何事もなかったかのように、切なげな表情で一点を見詰めている。

「クソ……ッ!!こんなモン見せやがって!何が目的なんだよ!?何が……!!」

「あ、あにき!?」

 自我を失ったロアは、何度も何度も炎を作り出しては空間へ攻撃を繰り返す。

 赤く変形した右の手は、短時間で魔力を使い過ぎた反動からか、どす黒く爛れ始めていた。

「もうやめろって…!!そんなことしたって無意味なんだよ兄貴!!」

 ガイルの必死の制止もむなしく、ロアは狂ったように炎を放ち続けた。それでも、有りっ丈の力を込めた炎は、音もなく空間の彼方へ呑み込まれるだけであった。

「止めろ……!!さっさと俺をここから出しやがれ!!」

「兄貴……っ」

 僅かに垣間見えた殺意とはまた違った感情を察して、ガイルはそれ以上言葉を掛けることが出来なかった。

 

 そんな混沌とした空間へ、再び新たな"音"が近付いてきた。

 

 その音の正体は、少年の名を呼ぶ澄んだ声音——

 ガイル、そして我に返り攻撃の手を止めたロアは、声のする方へ即座に振り返る。少年のもとへゆっくりと現れたのは、目を見張るほどの美女であった。

 腰まである真っ直ぐな金の髪に、大きく背の部分が開いた黒を基調としたドレス。そして、服の上からでもわかる、目のやり場に困るほどの妖艶な姿態。

 しかし、その背には黒の翼を備え、瞳の色は魔族特有の金色をしていた。

「おい……やめろ……来るんじゃねえ……」

 消え入りそうなロアの掠れ声が、空気に溶けてゆく。ガイルは、女性の特徴と義兄の様子から、彼女がロアの実母であると覚った。

『またこんな所にいたんだね、ロア。今晩はアスラ様の鎮魂祭があるんだ。皆、お前が帰るのを待ってるよ』

『帰りたくない……誰もおれなんか待ってないよ。祭りになんか出たくない』

『そんなことないさ。お前には私がいるんだ。何も心配することなんてないよ』

 そう言うと、女性はそのしなやかな腕で、小さな少年の背中を優しく抱いた。

『さ、戻ろうか。儀式の貢物を用意しないとね』

『……わかった』

『ふふ。本当に、素直な良い子だね。そうだ、歌でもうたいながら帰ろう。お前の好きなあの曲にしようか』

『うん……っ』

「やめろ……!行くな……!!」

 ロアは、これを恐れていたのだ。

 手を繋ぎながら背を向け去ってゆくその姿を追って、彼は駆け出していた。

「だめだ……!!今戻ったら"お前"は……!!」

 虚無の空間へ、二人の姿が徐々に呑まれてゆく。

「行くな!クソ!!要らねえんだよ……!もう見たくねえんだよ!!」

「待てよあにき!?」

「こんな世界さっさと消えちまえーーーー!!!!」

 

 ロアの叫声が響き渡った瞬間、眩い光が二人を——その場一帯を包み込んだ。

 

 あまりの眩しさに目を伏せたそれぞれの心の中に、直に流れ込む言の音があった。

 ガイルには、今そばに居なくてはいけない存在が紡ぎだす、汚れのない歌声。そしてロアには、唯一の心の拠り所であった母の、切なくも温かな歌声が——