第二十三話 苦難の先に

 セレナは、すうと深呼吸をした。

 懐かしい木々の臭い。緑々と茂る葉の擦れる音色。微かに響く鳥達の囀り。それらを全身で感じると、一瞬だけ美しきリースの森に帰ってきたような気持ちになった。

 ピィチと和やかにお喋りをしている彼女を隣で眺めていたガイルは、少しだけ口元を緩ませると、瞬時に表情を引き締め前を見据えた。その瞳には、目前に淡々と広がる未知の樹海が映し出されている。

 ここは馴染みの有るリースの森とは違う。

 今までの出来事を思い返せば、気を緩める余裕など微塵も無いのは承知の上だ。セティとの出会いの様な奇跡が何度も起きるとは限らないし、油断をしたら即座に得体の知れない化け物達の餌食になってしまうだろう。そして、今のセレナには"魔法が使えない"ことも——

 ゴーレムの召喚……先の経験上、あれ程の力を使って反動が無いのはおかしい。たとえそれが杞憂だとしても、無理だけはさせたくなかった。

 無論、それは本人が一番理解していた。

 短い期間とは言え、初めての砂地での生活は、華奢な少女の体力を大幅に奪っていたからだ。だからこそセレナは、仲間達に体のきしむような痛みを打ち明けられずにいたのだ。

 

 ガイルは再度辺りを見渡すと、一行に一声かけた後、木々の間に僅かに造られた獣道へ向け歩を進めた。しかし次の瞬間、背後から響き渡るピィチの奇声が、そんな彼の足を止めたのであった。

 

「ちょっとちょっと!大丈夫なのマリン!?」

 

 ただ事ではない声色に、ゼロムを含めた三人は勢いよくそちらを振り返る。

 生い茂る緑の絨毯にうつ伏せになりぐったりとしているのは、一行の最後尾を歩いていたマリンだった。

「マリンちゃんどうしたの!?きゃ……凄い熱……!」

「急に倒れちゃったのよ!砂漠を出てから今まで普通にしゃべってたのに!」

 ピイピイと泣き喚く小鳥の娘の横で、セレナがその汗に濡れた額に手を当てると、たちまち砂漠の日差しの様な熱が伝わってきた。

「おいマリン!しっかりしろって!」

「どうしちゃったのかしらあたし……なんだか急に力が抜けて……だいじょうぶよ……はやく先に進みましょ……」

「こんな状態で大丈夫なわけないだろ!?」

 駆け付けたガイルに支えられたマリンは、息も絶え絶えに立ち上がろうとするも、産まれたての子羊のように再び力なく倒れこんでしまった。

「おやおや、お転婆が過ぎたんですかねえ」

 子供達のやり取りを、まるで他人事の様に傍観するゼロム。しかし今のガイルには、なぜか自分達の旅の一員となっているこの小太りの男の相手をしている暇などなかった。

 少量の水と薬草を含ませた布を額にあてがい応急処置をとる。砂漠の暑さにやられたのか、はたまた何らかの感染症か。出発しようとしていた矢先の出来事……ガイルと、魔力の低下しているセレナにとって頼みの綱であるマリンまでこの状態では、現状、先へ進むのは困難に等しい。

「仕方ないな、マリンが良くなるまで休憩でもするか。きっと砂漠での旅の疲れが出たんだろ。俺とゼロムでテントの準備をするから、セレナとピィチはマリンを」

「ガイルまって!」

 矢先に彼の言葉を遮ったのは、森の奥へと目を向けていた蒼白のセレナであった。

「ゆっくりしていられないみたい……!!」

 その絶望に満ちた視線の先を静かに追ったガイルは、途端に表情を歪ませた。

「ちッ……こんな時に魔獣かよ!!」

「ひえええっ」

 年甲斐も無く側にいたセレナの後ろに身を隠すゼロム。ガイルの言葉の通り人とは違った不気味な気配が、無数の黄金の眼光が、木々の間から一行を取り囲んでいた。

 ほんの少しの油断。想定していた事とは言え、こんなにも早く最悪の事態が訪れようとは。

子供達の思いなどつゆ知らず、徐々に異様な姿を露にしてゆく魔獣の群れ。それらは主に、豚の様な容姿の人型モンスターと、巨大な茸の化け物であった。

 叢を掻き分けながら、じりじりとにじみ寄る魔獣の姿をその目で捕えるガイル。すると彼は、咄嗟に腕の中で息を荒げているマリンを背中に担ぎ上げた。僅かな時間で自分なりに考えを纏めたガイルは、一つの賭けに出る事にしたのだ。

「セレナ、ゼロム、走れるか?」

「え?う、うん大丈夫!」

「無理はしなくていい。何かあったら、俺が何としてでも全力で守るから」

 ふいに名を呼ばれ目を丸くするゼロムを尻目に、セレナは大きく首を縦に振った。体は痛むけれど、今はそれどころでは無いことくらい分かっている。走るくらいなら出来る。何よりガイルの言葉を信じているから。

 相手は複数とは言え、脚の短い魔獣と茸の化け物だ。状況を把握したセレナとピィチ、そしてゼロムは、ガイルの合図と共に獣道の方向へ一斉に駆け出す。

 “逃走”それが今の自分達に出来る最善の手段であった。

 

 

 

「はあはあ……!ようやく撒いたみたいだな」

 背後からの気配がない事を確認すると、一行はようやく足を止め、その場に崩れ落ちた。

 延々と続く似通った景色の中、一体どれだけの距離を進んだのだろうか。もう、森を抜けていてもおかしくない様な、そんな気にさえさせるほど、皆が皆ぼろぼろになりながらも、ただひたすら森の奥だけを目指して突走っていた。

 どうやら、ガイルの賭けは差し詰め成功したかのように思えた。彼は息を整えた後、担いでいたマリンをゆっくりと地面に横にする。彼女は、先の様子と変わらぬままであった。

「マリンちゃん、大丈夫かな?薬草効いてると良いんだけど……」

「ああ、心配ないさ。こいつの事だからすぐ良くなるだろ。マリンの事だから……少しでも休ませてやれればすぐいつも通りに……」

 不安気な面持ちで歩み寄るセレナに精一杯の微笑みを返す。

 根拠の無い返答。しかし今はそう信じるしか、そう自分に言い聞かせるしか方法が無かったのだ。

 

 湿った風が木々を揺らす。——雨をもたらす風である。

 

「……あーあ。このままだとアッシらも野豚の餌になっちまうかも知れませんねえ。やっぱりこんな子供に付いてくるんじゃなかったぜ。金儲けどころか災難ばっかりじゃねえか」

「なんだと……?」

 離れた場所で子供達のやり取りを傍観していたゼロムが、とうとうポツリと本音を吐露した。

「だってそうでしょう?アンタなんか何が目的か知らないが、いつも無鉄砲で成り行き任せ。女共まで巻き込んで、何が「心配ないさ」だよ。はんっ、結局はフリースウェアーの王子様気取りの単なるガキなんだろ?えぇ?」

「てめえ……黙っておけば好き放題言いやがって!少しは見直そうと思ったのに!!」

 堰を切ったように溢れ出る悪たれ口に堪え切れなくなったガイルは、勢いよく飛び出しその胸ぐらを激しく掴む。それでもゼロムは口を噤もうとはせずに、殺気立つ少年を更に罵った。

「おーこわいこわい。王子が庶民にそんなことして良いんですかね~?こりゃあフリースウェアーもお先真っ暗だな。今の状況みたいになぁ」

「それ以上言うと本当にただじゃ済まさねえぞ!!」

「お願いだからもうやめてよ二人とも……!!」

 今にも殴り掛かりそうなガイルを見かねて、力一杯振り絞ったセレナの叫声が周囲一帯に木霊したその時だった。

 

「みんなー!!」

 

 殺伐とした空気を経ち切る様に、黄色い声が響き渡る。声の主は、折り重なる樹枝の間を抜け上方から舞い降りてきたピィチであった。

 彼女は目を丸くする一行の頭上でバタバタと旋回すると、鶯色の翼の先で一方を指し示した。

「アンタたち、まだ希望を捨てちゃダメよ!聞いて!ここからほんの少し先に——」

「え?」

 

 

 一行は間も無く、獣道を抜けた先に広がるその光景を目の当たりにし、小鳥の娘の言葉が真実であると悟った。この鬱蒼とした森の中、僅かに開けた場所に、たった三軒ほどではあるが木造小屋(コテージ)が寄り添うように建っているのである。

 くたびれた木製の柵によって森と隔てられた小さな小さな集落。すぐそばを流れる小川のせせらぎしか聞こえない静かな場所ではあるが、丁寧に手入れされた花壇や、隣地している菜園の様子から、無人ではないことが窺い知れた。

「こんな所に家が……」

 未だぐったりとしているマリンを背負ったままのガイルが、静かに呟く。

「ねっ!言ったでしょ?アタシだって少しは役に立つんだから」

 肩の上でふんぞり返るピィチを、安堵の表情を浮かべたセレナが優しく指先で撫でてあげた。

 しかし——喜びは束の間だった。しとしとと、灰色の空から降りだした雨粒が、皆の足元を徐々に濡らし始めたのだ。

 立ち止まっている暇などない。セレナとガイルは目くばせすると、迷いなくランプの明かりが灯る小屋の方へと走り出していた。

 

 雨音に包まれた小さな集落。

 木枠の窓から漏れた靄に浮かぶ温かな明かりは、仄暗い森の一角をぼんやりと、幻想的に照らしている。

 手が塞がっているガイルに代わりセレナが数回戸を叩くと、少しの間の後、意外にも女性と思しき声音が屋内から聞こえてきた。

 再び顔を見合わせる二人。僅かな戸惑いを隠しつつ、次はガイルが扉の向こう側へと声を掛ける。

「すみません、病人が居るので少しだけ休ませてもらいたいんですが」

 柔らかな声色と共に扉を開け姿を見せたのは、栗色の髪を後ろで結った、小奇麗な細身の女性であった。

「まあ、こんな所にお客様だなんて……!」

 

 

「有難うございます」

 ホットミルクの注がれたカップを手渡され、セレナは安堵の笑みを返した。

 木製のテーブルを挟んで斜め前に座るゼロム、そして少女の隣の席に腰かけているガイルも、軽く会釈をしカップを口に運ぶ。

 女性は、小さな旅人達の濡れた上着をてきぱきと薪ストーブで乾かし始めると、次は長椅子に横になっているマリンの方へ足早に向かっていった。その様子を目で追うセレナ達。どうやら彼女自身も、突然の意外な来客に驚いている様子であった。

 マリンが眠りについた事を確認すると、ようやく華奢な女性はゼロムの隣の椅子に腰かけ一息ついた。

「ごめんなさいね。来客なんて久し振りだったから慌てちゃって……私はエリーゼ」

 年の頃はレダと同じくらいではあるが、その茶目っ気を含んだ笑顔は少女の様な可愛らしい印象を与えた。

 続いてセレナ達も軽く自己紹介をする。手短に旅の経路やこれまでの出来事を伝えた際には、彼女は更に驚きの表情を浮かべながら聞き入っていた。

「大変だったのね……今晩はここでゆっくり休んで行くと良いわ。マリンさんの事もあるし」

 一通り話が済むと、リビングに隣接するキッチンへと向かって行くエリーゼ。

「それで——あなたはこの村に一人で暮らしてるんですか?」

 しかし、ガイルの唐突な問いを受け、途中で不意に足を止める。ほんの僅かではあるが、一瞬空気が変わったような気がした。

背後から質問を投げ掛けられたエリーゼは、背を向けたまま、客人に気付かれない様にそっと目を伏せ答えを返した。

「いいえ」

 

「ママ、お客さんなの……?」

「シェリル!?」

 

 エリーゼの返答とほぼ同時に別室から現れたのは、うさぎのぬいぐるみを抱いた、栗色の髪の小さな女の子であった。

「だめじゃないちゃんと寝てないと……お母さん、ご飯になったら声を掛けるって言ったでしょう?悪くなったらどうするの」

「ごめんなさい……でも、なんだか眠れなかったんだもの」

 目前で突如展開したそのやり取りを、セレナ達一行は席に着いたまま静かに見守るしかなかった。

 

 外は雨。室内には、甘いシチューの香りが漂っている。

 エリーゼ、そして少女シェリル。二人との出会いによって後の運命が変わってゆくことを、偶然訪れた旅人達は未だ知る由もない。