第二十四話 止まない雨

「雨、あがらないわねえ」

 木造りの小窓から外を眺め、ピィチがらしからぬ物憂げな表情を浮かべた。

 彼女の言う通り、朝食時になった今でも、薄暗い雲から落ちる雫は止まることを知らず、ただ静々と森一帯に降り注いでいる。

 昨晩は、エリーゼの好意で空き部屋を貸してもらい、寝泊まりした一行。

 テーブルには、庭の菜園で採取されたものであろう野菜のサラダとシンプルな目玉焼き、そしてバターの塗られた小麦色のトーストが並んでいる。それを一口齧ってから、ガイルがこくりと頷いた。

「ああ、マリンもあんな調子じゃあな……」

「無理はさせちゃ駄目よ。昨日よりも良くはなっているみたいだけど、まだ熱は下がらないみたいだから。急ぎの用でなければ、もう少しここに居れば良いわ」

 マリンの眠る寝室から、シェリルの手を引いてやってきたエリーゼが、ふわりと優しい笑みを浮かべた。

「おはよう、シェリルちゃん」

 ふいにセレナに挨拶をされた栗色の髪の小さな少女は、少しだけ頬を赤らめながらそれに返し、彼女の隣の席に着いた。

 ゼロムは未だ大いびきをかいて眠っている。だがその話に触れる者は誰もいない。

「急ぎって訳ではないけど、色々あってゆっくりもしていられないんだ。だから、あいつには出来るだけ早く良くなってもらわないと。無理はさせないつもりさ……いつも俺以上に頑張ってくれてるし。しっかし、一体何が——」

 トーストを頬張りながら、ガイルが言葉を紡ごうとしたその時だった。

「ゴホン、ゴホっ!」

「シェリルちゃん大丈夫!?」

 セレナの隣に座っていたシェリルが、突然激しく咳き込み始めたのだ。

「まあ、いけないわ!今、お水を……!!」

 一際慌てた様子で娘に駆け寄るエリーゼ。セレナとガイル、そしてピィチは、食べる手を止めその様子に唖然としていた。

 

 

「——治らない病気?」

 シェリルを寝室に送り返した後、僅かな間に面変わりしたエリーゼにそう告げられ、子供達は言葉を呑んだ。リビングにはようやく目を覚ましたゼロムも居り、唐突な展開に疑問符を浮かべている。

 エリーゼは遠くを見つめる様にして、テーブルに肘を付き淡々と話し始めた。

「ええ、生まれつきなのよ。王国から届いた西の大陸の薬も、帝国で作られた魔法の薬も効かない病気……病名も原因もわからない。気安めになればと飲ませてはいるけど、最近では体調の波が激しくて……なんだか悪化してきているようにも見えるわ」

「そんな……」

 深刻な表情で聞き入るガイルの隣で、セレナが目を伏せた。

「だから"私達家族"は、ここに住まう事にしたの。もう、神頼みしかないって」

 エリーゼは、目を丸くする子供達に儚げな表情を向けると、話を続けた。

「あなた達は、願いの滝の存在を信じてる?」

「願いの滝……」

 聞き覚えのある名前に、声を揃えるセレナとガイル。

「そう。この森のどこかに在るという滝のことで、辿り着いた者の願いを一つだけ叶えてくれるらしいわ。噂が本当かどうかも、滝が実在するかもわからないけれど、もう私達には神様に頼るしか方法が浮かばなかったの。村に身を寄せる者は皆、似た考えを持っていたわ。そして……私の夫も、そこを目指した」

「も……もしかして、その、お父さんは……」

「ええ、おかしな話でしょう」

 セレナの問いに、消え入りそうな笑みを返すエリーゼ。

「私もできる事なら行動したいわ。けれど、あの子を置いてはいけないから……」

 それ以上聞いてはいけないような空気を察して、子供達は勿論、ゼロムですらも口を噤んだ。

 水を打ったように静まり返ったリビングには、降りしきる雨音だけが響いている。

 

 

 願いの滝。

 その噂をガイルは知っていた。島を巡る行商人達が広めた話である故、ゼロムも同じだろう。

『辿り着いた者の願いを叶えてくれる。』その話を耳にした際は半信半疑ではあったが、実際にこうして身近な話となると訳が違った。

 たかが商人の噂話であろうと、実際にこうして、求めているものが一瞬で手に入る奇跡がすぐそばに有るとしたら、自分は——

「ガイル?聞いてる?」

「うわっ!!」

 突然セレナが、大きなエメラルドグリーンの瞳をぱちくりさせながら、顔を覗き込んできた。あまりにも唐突過ぎて、ガイルは手入れ途中の剣を放り、腰掛けていたベッドから勢いよく床に転げ落ち尻餅をついた。

「せ、セレナかよ!何だよ急に」

「大丈夫?ぼーっとしてどうしたの?シェリルちゃんが起きたみたいだよ」

「あ、ああ。そうか。わかった、今いくよ」

 セレナは報告し終えると、パタパタと先に部屋から出ていった。

 一人になったガイルは床に落ちた剣を徐に拾い上げた。磨かれた剣刃の部分に、自身の虚ろな表情が映る。

 もし、本当にそれを目の前にした時に、自分は皆の願いを……セレナやマリンやエリーゼさんの願いを優先できるのだろうか?

 

 ——いいや、無理だね。

 

 剣刃に映った自身の顔が、一瞬見覚えのある顔に変貌した。薄ら笑いを浮かべた、同じ赤眼の魔族の顔に。

 

「うわあ!!」

 再び床に落ち、鈍い音を響かせるガイルの剣。咄嗟に辺りを見回すが、部屋の中には他に誰も居ない。どうやら幻聴を聴いたようだ。

 無意識に呼吸が荒くなる。それを僅かな時間でなんとか整えたガイルは、剣をそのままに、皆の声のするリビングの方へと駆け出していた。

 

 

「わあ、おじちゃんすごいすごいー!」

「なんだこりゃ?」

 呆然と立ち尽くしているガイルのそばで、その光景を眺めながら微笑むセレナとエリーゼ。

「あのねえ、アッシはまだ二十五で……って、あんまり暴れると危ないでしょ!」

 そこには、ゼロムに肩車をされてはしゃぐシェリルの姿があった。

 事の成り行きをセレナに説明されたガイルは、それでも開いた口が塞がらずにいた。あのゼロムから、彼女の遊び相手を申し出たなんて。

 どうやら、シェリルの具合も今のところ良い状態らしく、エリーゼも娘の楽し気な表情を安心しきった様子で見守っている。

「ガイル、ちょっと良い?」

「どうした?」

 賑やかな空気を妨げないように、セレナが小声でガイルに囁いた。

「ええと、聞いてほしいことがあるから、少しだけ二人きりになれないかな……」

「へっ!?」

 なぜかガイルの声は裏返った。

 

 

「滝を探しに行きたい!?」

 突拍子もないセレナの告白に、再び声が裏返るガイル。聊かよからぬ妄想を抱いていた年頃の少年は、気付かれないように心の中で落胆した。

「うん、だめかな?」

「あのなぁ……」

 同じベッドに腰かけて、おずおずと問いかけてくるセレナに、ガイルは困惑気味に言い聞かせた。

「エリーゼさんの話だと、大の大人でも帰って来られなくなるような場所だぞ?それに、実際に滝が在るかどうかも定かじゃないし、時間の無駄になる可能性だってあるんだぜ。何より、この天候じゃあ条件悪すぎるだろ」

「そうかもしれない……でも、ガイルはあの話を訊いて、少しも私みたいな気持ちにならなかったの?私は……たとえ他人でも、こうして出会って悩みを打ち明けてくれた人達を放っておくことなんてできないよ」

「だけどよ……」

 言葉を濁しながら、ガイルが更に続けようとしたその時である。

「アンタってば、ほんと冷たい男ねえ。マリンもあんな調子なんだから、その間だけちょこっと探検するくらい良いじゃないの。ねえ、セレナ?」

「ぎゃあっ!?」

 突然、セレナの頭のてっぺんからひょっこりと現れた小鳥の娘に驚き、再びベッドからずり落ちるガイル。

「ピィチお前居たのかよ!!二人きりじゃなかったのかよ……」

「ごめん、ピィチちゃんがどうしてもって言うから」

 ガイルは苦笑いするセレナの隣に腰掛け直すと、マイペースな少女達を横目に深いため息をついた。

「わかったよ……ったく、お前らは一度言い出したら聞かないもんな」

「ガイル!」

 少女達の表情が一気に明るくなった。

「まあ、俺も興味が無いって訳じゃないし、マリンが治るのを待ってるだけってのも性に合わないしな。けど、約束だぞ。何かあったらすぐに退く。お前の魔力だってまだ回復しきってないんだろ」

 不意に図星を突かれ、神妙な面持ちになるセレナ。

「大丈夫。無茶はしないって絶対に約束するから」

 そう言ってセレナは、ガイルの膝の上に置いてあった手を取り、きゅっと握った。

「いつも私のわがままをきいてくれて有難う。ガイル」

「セレナ……」

 天使の様な、柔らかな微笑みを向けられたガイルは、一生この手を洗わないと心に誓った。

 

 

 

「雨脚は弱まってきているみたいだけれど……気を付けて。絶対に帰ってくるのよ」

 雨対策の為の厚手の外套を羽織ったセレナとガイル、そしてピィチは、エリーゼとシェリルに見送られて村を後にした。

 話の件を説明しされた際にはエリーゼは酷く反対したが、それでも身を引こうとしない子供達の意志の強さに押され、彼女は半ば仕方なく聞き入れることにしたのだ。

 偶然訪れた見ず知らずの旅人へ私情を打ち明けてしまった自分に、少なからず非を感じていたエリーゼは、それ以上強く出ることが出来なかったのである。

 しかし……彼女にとって、誰かに心のつかえを聞いてほしかったのは、隠しようのない事実であった。

 たとえそれが、小さな子供相手であろうとも。

 

 ゼロムは、意外にも滝を探す探索に付いては来なかった。

 あの強欲な男のことだから、願いの滝の噂を知っていたら否が応でも同行すると思っていたが、話を持ち掛けた際に、無駄な努力はしたくないと突っぱねられてしまったのだ。

 前日の口論のせいもあったのだろう。ガイルはぬかるんだ台地を踏みしめながら、その内容を思い返していた。

 

 何が心配ないさ、だよ——

 

「ガイル、ちゃんと前を向いて歩かないと、ころんじゃうよ?」

 不意に後ろを歩いていたセレナに声を掛けられ、ハッと顔を上げるガイル。彼女の言う通り、一晩降り続いた雨によって粘り気を増した土壌は滑りやすく、予想以上に足場が悪くなっていた。

 しかし、淡い青みがかった靄のかかる森は目を見張るほど神秘的で、木々や岩を覆う苔も、煌きながら滴り落ちる雨粒ですらも、気を抜いたら足元はおろか、心まで攫われてしまいそうな、そんな気分にさえさせる程の美しさであった。

「なあ……セレナ」

「なに?」

 今度は不意に名を呼ばれたセレナが、背を向けたままのガイルを見やった。

「お前はさ、もし本当に滝が存在してたとしたら、自分の願いを叶えたいとは思わないのか?」

「私の願い?」

「だから、その、両親のこととかさ」

「お父さんとお母さんの……」

 唐突に投げ掛けた自身の問いによって口を閉ざしてしまったセレナの様子に、ガイルは慌てて振り返った。

「いや、ごめん。何でもないよ。今はエリーゼさんとシェリルが優先だよな。何考えてるんだ俺は……」

「私は——わからないんだ」

 足を止め、俯いたままで、セレナはぽつりと呟いた。

「もちろん、お父さんとお母さんには逢いたいし、帝国に向かう理由も、ガイルやマリンちゃん達と一緒に旅をする理由も、二人を探すことが目的だからなんだけど……それが本当に、私の一番望んでいることなのかなって、時々わからなくなる」

「セレナ……?」

「ときどき、怖くなる……真実を知ってしまったときに、手にしてしまったときに、私自身がどうなってしまうのかって」

 

 魔族と呼ばれ疎外された母親、そして連れ去られた彼女を追って国を去り、姿を晦ました一国の王。

 長い間、広い森で動物達と暮らし、外の世界を全く知らなかった少女。それが今こうして過酷な旅に出ている。今まで弱音すら吐かずに——

 

 ガイルは、雨に濡れた小刻みに震えるその小さな手を、握ってやることができなかった。セレナの思いを受け止めるには、自分では未だ役不足だと感じたからだ。