第二十二話 素直な気持ち

 鮮やかな緋色の夕日に照らされ、広大な砂の海には規則的な砂紋がくっきりと浮かび上がる。

 日が落ち始めると同時に、澄んだ空気は徐々に冷たくなってゆき、それだけでも夜の訪れを感じさせるには十分であった。

 無限の砂漠での、最後の夜の訪れを——

 

 子供達を乗せ、岩場を抜けたラクダ車は、少し進んだルート上に聳える砂丘の側で停止した。

 月の女神に見守られ、無数の星々に抱かれた始めの日と同じように、女性陣は備えておいた食材を使い夕食の支度を、男性陣はテントを広げ寝床の準備に取り掛かる。

 明日にはこの過酷な砂漠地帯を抜け出す事が出来る……黙々と作業を進めるセレナ達一行の心には、そんな確かな安心感が芽生てゆく。

 しかし、一方で僅かな蟠りが残っているのも事実。皆、無意識の内に口数が減っていたのも、その蟠りが原因であった。

 

 いつもよりも静かな食事。些細なやり取りから生まれた喋り声よりも、料理を温めている焚き火の音の方が勝っている程である。

 そんな最中——初めに皆に会話を持ち掛けたのは、セティであった。

「明日であんたらともお別れかぁ。なんだか寂しくなるな」

 顔を上げ、食事の手を止めた子供達は、一斉に彼の方に目を向けた。

「セティ……ああ。色々あったけど、お前に出会えてなかったら俺達今頃どうなってたか。きっとその辺でのたれ死んでたぜ?本当に世話になりっぱなしだったな……有り難うな」

 ガイルは堰を切ったように冗談交じりに喋り出し、少女達も笑顔で賛同する。

「でも」

 不意に声を落とすガイル。

「お前はあれで良かったのか?あいつらを野放しにして。また悪さを働くかも知れないだろ。なんなら、フリースウェアーの牢獄にでもぶち込んでやろうか?」

「ああ、あんたらはそれを気にしてたのか」

 図星を突かれて、顔を見交わす子供達。セティはその様子に微かに表情を緩めた後、大きく空を仰いだ。

「ずっと自分に言い聞かせてたんだ。そうすれば、いつか神話の様に、皆が手を取り合える日がくるんじゃないかってね。けれど、いざ面と向かってみたら、到底、思い描いていた通りにはいかくて。……仲間と同じ目に合わせてやりたかった。それがオイラの——嘘偽りの無い正直な気持ちなんだと思う」

「セティお前……」

 どこか物寂しげに星々を眺めていたセティは、ふいに視線を下ろした。

「気持ちは嬉しいよ、ガイル。でも過ぎた事はもう良いんだ。これ以上部外者を巻き込むわけにはいかない。……キミも言っていただろう?完璧な平和なんて存在しない。たとえやつらが去ったとしても、いつか同じようなやからは必ず出てくる。オイラはそれを……何度も見てきた。長い長い無限の砂漠の歴史の上で、今日の出来事も、あんたらとの出会いも、通過点にしか過ぎないんだよ」

「それでも、セティはあたし達との別れを寂しいと思ってくれたんでしょ?」

 セティの言葉を断つようにして、彼の正面に座っていたマリンが口を開いた。

「それでもセティは、仲間を思って涙を流した……単なる通過点でも構わない。あなたの心を揺るがす何かがほんの少しでも芽生えたのなら、あたし達はここに居る意味を見出せるもの。何年もの月日が経って、セティの記憶から今日と言う日が消えてしまったとしても、あたし達の心の中で、この砂漠での出来事やセティと過した日々はずっと生き続けるわ。それに——あの時、あなたは逃げなかった。もう一人の自分と向き合って、正直な気持ちを伝えたじゃない!……あなたには沢山の仲間達がついている。たった一人で背負い込まないで、時には頼り、時には頼られるのが仲間ってものよ。今のあたし達みたいにね」

 マリンはそう言うと、片目を瞑って彼女お決まりの目配せをする。

 二人のやり取りを静かに見守っていたセレナとガイル、そしてピィチも、目を丸くするセティに向けて、何度も大きく頷いていた。

「みんな……」

 

 ふっと、肩の荷が下りたような気がした——

 

 長い、長い間、心の奥に蔓延っていたジレンマ。この小さな旅人達と出逢わなければ、これからもずっと解放されることは無かったかもしれない。

 セティは子供達へ向け微笑み返し、「忘れないよ」と小さく呟いた。

 

 夜を司る女神ルナーは、そんな彼の目じりに浮かぶ雫を、そっと隠してあげたのだった。

 

 

「……さあ歌おうセレナ!最後にもう一度、キミの美しい歌声を聴いてみたいんだ」

 セティは立ち上がり声を上げると、肩に下げていたリュートを奏で始める。それと同時に、軽快で華やかな旋律が辺り一帯を包み込み、広大な砂の海を自由な風のように駆け巡ってゆく。

 突然名を呼ばれたセレナは、慌てて立ち上がり、彼の歌声に合わせながら音色を紡いだ。それは歌い手の心境そのものを映し出したかのような、とても爽やかで気持ちの良い音調である。

 少女の肩の上で、二人の奏でる音に合わせ口ずさむピィチ。ガイルとマリン、そして子供達に背を向けていたゼロムですら、その旋律に酔いしれている。

 晴れ晴れとした表情でリュートを弾くセティを見詰めながら、セレナは心の奥底で静かに彼に語りかけていた。

(セティさん、最後じゃないよ。私たちはきっとまた出逢えるから……)

 

 広大な無限の砂漠に、果てしなく続く星空に、いつまでも響き渡る二つの歌声。

 淀みなく流れる晴れやかな音色は、セティのこれからを――そして子供達の、始まったばかりの旅の行く末を表しているかのように、希望に満ちたものであった。

 

 

 

「じゃあ、気を付けて行きなよ」

 抜けるような空の下、ラクダ車を降りた一行は砂地と緑地の境界に立っていた。

 子供達は、案内人であるセティと交代で握手を交わしながら、それぞれに別れの挨拶を述べ合った。

「セティさん、有り難うございました」

「オアシスのみんなにも宜しく言っておいてちょうだいね!」

深々と頭を下げるセレナの肩の上で元気いっぱいに飛び跳ねるピィチに、セティは思わず顔が綻ぶ。

「世話になったなセティ。それにバラとサリーも元気でな」

ガイルが二頭のラクダ達の首元を優しく撫でると、ラクダ達は心地良さそうな声を上げながら、彼の頬に思い切り擦り寄ってきた。

「はは、どうやらサリーは特段あんたを気に入ったみたいだね。彼女にやきもち妬かせるんじゃないよ」

「だ、だから、そう言うんじゃねーって言ってるだろっ!!」

「どうだかなあ。真っ赤になっちゃって。可愛いなあガイル君は。ねえセレナ?」

「セティお前人をからかうのも程ほどにしろよ!?」

 盛り上がる少年達の傍らで、セレナは頭上に疑問符を浮かべ、ポカンとしている。この様子では、ガイルの恋路はまだまだ先が長そうだ。

「セティ」

 次いで、落ち着いた声色で彼の名を呼んだのは、マリンであった。マリンはあの時と同じように両手でその手を強く握ると、セティの瞳を真っ直ぐに見詰めた。

「セティ、もしも挫けそうになったら、神様に祈る前にあたし達のことを思い出して。今の素直なあなたなら、どんな困難が待ち受けていようとも、きっと……」

「マリン……」

「えっ?」

 次の瞬間マリンは目を見張った。握り返された指先が、そっと彼の口元に添えられたからである。

 

 目の前で突然起きた出来事に驚愕するガイルと、セレナの視線の先を慌てて飛び回るピィチ。

 そして当のマリンはと言うと、状況を把握出来ないまま、優しく握られた手元だけをじっと見入っている。

「有り難う。マリン」

セティは目を伏せながらそう呟くと、ゆっくりとその手を下ろした。

「案内人は客に特別な感情を抱いちゃいけないんだ。でも、これがオイラの正直な気持ち。マリンに叩かれた頬の痛み、今でも残ってるんだよ。オイラにとって一生忘れない思い出になると思う。大切な仲間達を傷付ける前に……目覚めさせてくれて、有り難う」

 柔らかな光の様な微笑みを向けられたマリンは、少しの間の後、我に返って口をパクパクさせた。

「せ、セティ?ちょ、えっ?」

 頭から蒸気を噴出させ、完熟したトマトのように顔を真っ赤に染めたマリンは、今までに誰も見た事が無いであろう盛大な慌てっぷりを披露した。

「まあ、混乱するのも無理ないか……どうやらあんたにはもう心に決めた"王子様"がいるみたいだしね。別れる前に感謝の気持ちを伝えたかっただけだから」

「……へ?」

 目をぱちくりさせながら硬直しているマリンへ向け、苦笑いを交えながらそう告げるセティ。

 彼は、そのやり取りに瞠目しているガイルとピィチ、そして状況を全く理解していないセレナに軽く目配せをすると、ラクダの背に勢いよく飛び乗った。

「さ、今度こそ本当のサヨナラだ。また、ここへ来る時があれば手紙でもなんでも送ってよ。必ず迎えに行くから。次こそは平和な旅を届けられるように、案内人として——人として、成長して待ってるからさ」

 セティは最後に「またね」と言い残し、ラクダ達を慣れた手付きで操り踵を返すと、もと来たコースを悠々と引き返していった。

 去って行くラクダ車を静かに見届けていたセレナ達一行。その姿が視界から消えると同時に、大事なことを思い出したマリンの叫声が、そこら一帯にこだましたのであった。

 

 

 通称"死の砂漠"の案内人セティ。

 月の女神ルナーを彷彿とさせる黄昏色の瞳に、太陽神ソウルを思わせる褐色の肌。心揺さぶるリュートの音色に……ワーム達を操る強大な力。

 沢山の思い出、そして不思議で不可解な出来事だらけの砂漠地帯ともお別れである。子供達は、ここでしか浴びる事の出来ない降り注ぐ日差しを、遮る物の無い満点の星空を、鮮やかな夕日を——そして砂漠の住民達との出会いを、まるで遠い日のように思い返していた。

 それぞれの耳に、いつまでも残る軽快な鈴の音。この地での出来事をきっと……いや、絶対に忘れてはならない。そう心に誓いながら、一行は無限の砂漠に背を向け歩き出した。

 

 

 頬を風が掠める。僅かに冷やりとした涼しさを感じられる、北方からの風だ。

 見据える先には、今となっては懐かしくも思える緑溢れる雑木林が広がっており、奥には小高い山が連なっている。この森林地帯を越え、山の向こう側に渡る事こそが、先の長い旅の次の目標である。

 大地を踏み締めると、砂地では感じ得なかった柔らかな草の感触が伝わってくる。

 

 一行は、とうとうセイル=フィードの中腹部へと辿り着いたのである。

 

 

 

 ***

 

 

 

「ロア、どこへ行くの」

 仄暗い回廊の片隅から、抑揚の無い声色で名を呼ばれた男は、振り向かずに立ち止まった。

 漆黒の空間へ向け聳え立つ、無数の柱の脇——否、もとから自身の背後に潜んでいたのやもしれないが。暗闇から音もなく姿を現した女へ向け、砂色の長髪のその男は冷たく言い放った。

「てめえには関係ねえだろ、ロザリヤ」

「そうね。けれどあまり勝手に動き回らない方が良いわ。そう、占いに出ている」

 ロザリヤ——そう呼ばれた雪の様に白い髪をもつ女は、表情一つ変えずに胸元から一枚のカードを取り出した。

「知るか。お前こそ勝手に俺を占うんじゃねえよ。お前は黙って"アイツ"の世話でもしてな!……今度ふざけたマネしたら、その身体、俺の炎で跡形も無く消し去ってやるから覚えておけよ」

 ロアは、眦を切った敵意剥き出しの表情で彼女をひと睨みすると、二対の大きな翼を広げ、漆黒の広がる虚無の彼方へと飛び去っていってしまった。

 一人残された蒼白の美女は、闇に消え行く背を見届けた後、再びカードを見返す。

「……懲りない男ね。いつかその執心が身を滅ぼすというのに」

 

 彼女の手にするカードには、鎖に繋がれた悪魔の姿が画かれていた。