第八話 響きあう心

 大きく丸い白銀の月明かりが、広大なセイル=フィードの台地を照らす。

 

 リースの森の入り口付近で子供達を乗せた荷車は、ガタゴトと軽快とは言い難い音を奏でながら、山沿いの平坦な一本道をゆったりと進んでいた。

 牛車の荷台部分は屋根付きの小屋の様な形状になっており、貨物と、少数であれば人を乗せても余裕ができる程度のスペースがある。

 木製の頑丈な造りではあるが、座り心地は決して良くは無い。だが、徒歩で数日かかる場所まで無償で運んでくれるのだから、贅沢は言えないだろう。

 

 ガイルは仰向けになり、木枠で造られた小窓から星の瞬く空を眺めていた。

 セイル=フィードの夜空は、幻想的であり、厳かであり、雄大であり……夜を司る伝説上の女神ルナーを彷彿とさせるには、十分過ぎる程の美しさであった。

 隣からはセレナの安らかな寝息が聞こえる。

 この揺れの中で安眠できるとは……彼女らしいと言えばらしい。だがそれ以上に、何年もあの穏やかな神樹の森で暮らしていた彼女にとって、ここ数日は思いもよらぬ波乱の日々であっただろう。

 深い眠りに就かずにはいられない程の心労を抱えていたに違いない。

  無論それは、ガイル自身も同じであった。ただ——

 彼女の事、兄の事、国の事、これからの事。思う事が沢山有り過ぎて寝付けないでいるのだ。

 それに急ぎではないにしろ十五年目の今年、いつ“黄泉の宴”が幕を開けるか分からない。もし旅の途中に突如として起きたとしたら、自分には何ができるだろうか。

 レダとの約束を果たせるのだろうか……

 

 貨物とセレナの身体を避けながら、ガイルは何度か寝返りを打った。

 同時に、ふと目に付いた頭上の数個の木箱。側面には呪符の様なものと、『開放厳禁』の文字が書かれた紙が貼り付けてある。

 疑問を抱きつつもぼんやりと眺めていると、気のせいだろうか。荷車の振動とは違った動きをしたような。

 目を凝らし、木箱の僅かな隙間から中を確認しようと身を乗り出した瞬間——牛車はゆっくりと静止した。

 まだシエルまでは距離が有るわけだが、様子がおかしい。なぜなら、出発時は一人であった筈の商人以外の声音が、小屋の外から聞こえるからである。

 それは人族の数倍の聴覚を持つ、竜人族だからこそ聞き取れたのかも知れない。

 気付かれぬように、身を伏せた状態で耳だけを傾ける。会話の内容までははっきりとは分からないが、商人——ゼロムという男以外の何者かが存在しているのは確かであった。

 

「セレナ……おい、起きろセレナ」

 ガイルは静かに起き上がり、声を押し殺したまま、隣でぐっすりと眠りに付いていた少女を軽く揺さぶった。

 数回それが繰り返された後、セレナは目元を擦りながらようやく身体を起こす。

「ガイルどうしたの……?」

「しぃー、なんだか外の様子がおかしいんだ」

「うるさいわねえ。もうシエルに着いたの?」

 木箱の天辺で丸くなっていたピィチも目を覚まし、若草色の翼を広げ伸びをする。しばらく寝惚けていた彼女達も、ようやっと状況を理解し始めた——その時である。

 

「さささ山賊だあ!助けてくれえーー!!」

「山賊!!?」

 

 間の抜けた……否、恐怖に満ちた悲鳴の主は、今まで牛車の手綱を握っていた筈のゼロムに違いなかった。

 子供達は顔を見合わせた後、荷物をそのままに急いで荷台の外へ飛び出した。

「大丈夫か!」

 地面にへたり込んでいるゼロムのもとへ駆け寄る二人。顔面を真っ青に染めて目を白黒させている彼は、どうやら腰が抜けて立つ事もままならない様子だ。

「見てガイル!囲まれてるみたい……!」

 セレナの緊迫した叫声に促され、顔を上げ視線を巡らすガイル。そこには複数の黒い影が揺らめいており、目を凝らすと、ざっと七、八人程の男が円を描く様に牛車の周りを取り囲んでいるのが確認できた。

「牛を進めていたら急に襲ってきやがったんですう。ガイル様、お助けくだせえ」

「数が多いな……まあ、やるだけやってみるか。セレナ、そいつを頼む!」

「う、うん。無茶しないでね……」

 ガイルは腰から抜いた剣を構え、即座に臨戦態勢に入る。

 

 進めてたら急に……?

 

 ふと、先のゼロムの発言を思い返した彼の脳裏に、微かな疑問が湧き上がった。

 確か荷車が止まってから、かなりの間があったような……それにあの会話は一体?

「あんたがフリースウェアーのガイル様か。ケケ、久々に良い獲物だな」

「噂には聞いてたけど、単なる青臭いガキじゃねえか。そいつらと一緒に身包み剥いでやろうぜ」

 酒焼けしたかすれ声が合図を出すと同時に、湾曲した短刀をギラリと光らせ、数人の山賊がにじり寄って来る。

「ちっ……!」

 ガイルはこの商人に対し疑心を抱きつつも、今は族の相手に集中する事にした。

 

 セレナはというと、未だ口をパクパクさせているゼロムの横で、その様子を凝視していた。初めて遭遇する山賊への恐怖心、そして戸惑いの中、震える指先で首元に光る水晶を強く握り締める。

 奴らの手にする刃物が、月明かりに照らされ怪しく輝き、更に恐怖を煽る。だが一方で、彼女はそういった状況の把握ができるほど平静でもあった。

 なぜなら、魔族と対峙した時の恐怖と言えば、この程度の比ではなかったからだ。

(あの時の力があれば——)

 魔族の男、ロアの脅威から二人を守った、不思議な力。それさえあれば、ガイルを手伝う事が出来るのかも知れない……

 思いばかりが強く、もどかしく募ってゆく。しかし、今はその“力”とやらを自らの意思によって自在に操る事は不可能だと、残念ながら彼女自身も気付いていた。

 

 当のガイルは、素早さを生かしながら山賊達の攻撃を避けつつ、牽制を繰り返している。山賊だろうと相手は人間。どうやら、傷付けない程度に威嚇攻撃のみを行っている様子だ。剣は空をかすめ、防衛戦ばかりが続いていて、中々埒が明かない状態である。

 それを眺めていたゼロムが、突然ぽつりと呟いた。

「あーあ。こりゃ、長引きそうですねぇ」

「え?」

 セレナは目を丸くして彼に視線を向ける。すると、今まで脅えた様子だったゼロムはすっと立ち上がり、牛車へと踵を返した。

「ガイル様には悪いですが、急いでるんでそろそろ行かせてもらいますかねえ」

「あ、あの……ゼロムさん?」

 男の急な変化に驚くセレナ。

「おい、待てよ!!」

 ガイルは次々と浴びせられる攻撃を剣で受け、弾き返し、二人の方へ向かおうと試みるが、族はなかなかそれを許してはくれない。戦の最中であっても、彼が商人の変化に気が付くのに時間は掛からなかった。

 そして——とうとうその手は、ゼロムと離れた少女へも及んだ。

「お譲ちゃんはオレ達と遊ぼうかあ?」

「きゃ……!?」

 セレナの周りを取り巻く三人の山賊。突如として向けられた刃に、彼女は怯えたまま立ち尽くす事しか出来ずにいる。

「お前らの相手はオレだろ!そいつは関係ねえ!!」

 なおも自らへの攻撃は続き、焦りだけが募るガイル。彼の叫びも空しく、山賊の一人が、無抵抗であるセレナの美しい髪に刃を立てる——

 その瞬間、ガイルの中で勢いよく何かが弾けた。

 

「セレナに……手を出すんじゃねえェーー!!」

 

 短刀を制していた彼の剣が、閃光と共に瞬時に真紅の炎に包まれた。

「ぎゃああっ!!」

 炎は相手の腕をも巻き込み、激しく燃え上がる。男は咄嗟に熱を持った得物を投げ捨て、悶えながら後方へと引き下がった。

「ガイル……」

 その光景にゴクリと息を呑むセレナ。ゼロムに関しては、牛の手綱を握り締めたまま、小さな目を大きく見開き唖然としている。

 当のガイルは、剣——いや、自らが発した爆発的な炎に一瞬驚きはしたものの、すぐに体勢を整え、鋭い視線を残りの山賊達へ向け直した。

「くそ!相手が悪いぜ」

 彼の燃え盛る炎の様な瞳に睨まれ、山賊達はしり込みをしている様子である。まだ子供だとは言え、戦闘能力に関しては人族の数倍は有するであろう竜人族。 本気を出せば、山賊如きが敵う相手ではないからだ。

「仕方ねえ、エルフ女の髪だけでも頂いてトンズラするか」

 一人が唾を吐き捨て、苦し紛れに言い放つ。 同時に、髪と刀を握る手に力が込められた。

「やめろ……セレナーー!!」

 

「——……ッ」

 

 セレナが強く目を閉じた瞬間、彼女の足元から広がり出た魔法陣から、“それ”は眩い光を放ち姿を現した。

 暗い夜の闇を切り裂き、天に浮かぶ月を目掛け舞い上がる、一羽の白鳥。

 長い尾と、空を抱く大きな翼からは、淡い金色色をした光の粒子がとめどなく溢れ、翼をはためかせる度に地上へと降り注ぐ。

 静寂と温かな光の中で、山賊達も、ゼロムも、ガイルも、その場にいる誰しもが心落ち着かせ、奪われ、そして言葉を失う。

 セレナだけは、ただ静かに瞳を瞑ったままであった。

 

 艶やかな白鳥は、羽を伸ばす様にしばらく上空で旋回を繰り返した後、皆が息を呑み見詰る中でふいに体勢を変え——直後、一気に急降下を始めた。

 迷い無く向かう先は、山賊でも召喚主のセレナでもなく、ガイルのもとへと。

「な……!」

 目を丸くして咄嗟に身構えるガイルの周囲を、凄まじい疾風が吹き抜ける。巨大な鳥は、山賊の短刀を覆っていた炎をも巻き込み、再び風と共に上空へと舞い戻った。

 刹那の出来事。

 ガイルは、身構えたまま微かに瞼を開けた。不思議な事に、夜中だと言うのに真昼の様な明るさと、日差しを思わせる暖かさが身体全体を覆っている。

 不気味なまでの静けさが辺りを包む中で、彼は徐に顔を上げる。

 まず目に付いたのは、瞳を瞑ったまま未だ微動だにしないセレナ。次にあんぐりと口を開け空を見上げている、放心状態の山賊達とゼロム。

 そして、男達の視線の先に目を向けると——

 

「セレナの召喚獣が俺の魔法を……?」

 

 真紅の炎を纏ったセレナの召喚獣が、燃え盛る翼をはためかせて悠然と空を舞っている。それはまさに、伝説上の不死の神獣“フェニックス”さながらの、神々しい姿であった。

 皆がしんと静まり返る中で、山賊の一人がようやく口を開いた。

「こ、こんな奴らと戦ってられるかよ……やめだやめ!俺は辞"めさせて"貰うぜ!」

 一声を発した男に続いて、その場にいる男の殆どが何も持たずにそそくさと逃げて帰ってゆく。しかし、なおも荷車に積まれた品を狙う者も残っており。

「まだやるのか?」

 ガイルがセレナの火の鳥を背に、剣に炎を纏わせ突きつけると、留まっていた山賊達も尻尾を巻いて走り去っていった。

 

「おいゼロム」

「は、はひい、ななななんでしょうガイル様!」

 ガイルは騒動直後に倒れ込んでしまったセレナを抱かかえながら、ゼロムに詰め寄った。セレナの卒倒と同時に、前に現れたユニコーンと同じ様に火の鳥も消滅したのである。

 小太りでもとから汗掻きの商人であったが、今となっては滝の様な脂汗がターバンの下から流れ出ており、滲んだ汗や鼻水と混じり合って見ていられない程である。

 その様子に少年は「はあ。」と大きな溜息をついた。

「色々聞きたい事があるけど後にする。今はセレナを寝かせてやりたい」

 ガイルは察していた。先程の山賊と、このゼロムと名乗る商人に、少なからず関わりが有るのではないかと。だがそれ以上に、身体全体が軋む様な痛みと、相当な疲労感が彼を襲っていたのだ。戦闘で受けた傷は大したものではないが、兎に角今はすぐにでも休みたかった。

 

 シエルまでは、何事も無ければ明日の日中には到着する筈。彼は貨物を寄せ、優しくセレナを横にした後、再びゼロムに振り返った。

「次に何か有っても、この“木箱”の安全は保障できないからな」

 炎のドラゴンの瞳を彷彿とさせる鋭い眼差しに睨まれた汗だくのゼロムは、引きつった笑みを浮かべ慌てて「はひ」と返事を返した。

 

 煌々と輝く月明かりのもと、子供達を乗せた荷車は、再度シエルへ向け移動を開始した。小屋の中では、何事も無かったかのように、セレナとガイルが深い眠りについている。

 二人はまだ気付いていない。荷車の中の所持品が減っている事、そしてお喋りな小鳥の娘の姿がない事に。