第十話 ピィチ救出作戦

 海の花亭、二階奥の一室。

 どうやら、ここは長い間使われていない部屋らしい。荷物袋を置いた途端に足元の埃が舞い上がり、木製の家具は潮風によるものか僅かに白く変色している。

 だが一方で、机の上の小物等はきちんと整頓され、少し掃除をすれば問題無く生活ができそうな状態だ。

 食事の後はじめて、所持金が無くなっている事に気付いたセレナとガイル。慌てて理由を述べたガイルであったが、流石にあの量の料理全てを無料に——という訳にはいかず、皿洗いを手伝わされる羽目になったのだ。

 

「でもマリンちゃんが良い人でよかったね。お皿洗いだけで許してもらえたし、その上お部屋まで貸してくれるなんて」

 遮るもののない真四角の窓から身を乗り出し、真っ青な海と空、そしてシエルの美しい町並みを見渡すセレナ。まだ外は明るい時間帯だが、夕刻へ向けて、通路を行き来する人々の姿は疎らになってきている。

 彼女は先程のピィチの話を思い出し、床に座り荷物の整理をしているガイルに振り返った。

「ガイル、そういえばさっき……」

「てる……」

「え?」

 ガイルがセレナに背を向けたままぽつりとつぶやく。

「荷物が減ってる……」

「ええ!」

 窓辺から離れ慌てて駆け寄るセレナ。彼は愕然としながらも、我に返って今朝の出来事を思い返した。

 

 今朝——

 町に着くや否や、挨拶も早々に二人のもとから去って行った商人の男、ゼロム。何かは定かではないが、やつが隠し事をしているのは事実であったし、何よりもその牛車の向かう先には例の大寺院が見えていた。もし、山賊を使い自分達から“珍しいもの”を奪おうとしていたのなら、辻褄も合う。

 ゼロムを探し出せば、自ずと答えは見えてくるのかも知れないが——

 

 ガイルがふと顔を上げると、不安げな表情を浮かべるセレナと目が合う。

(ま、荷物よりもピィチを救い出すのが先か)

 彼は心の中でそうつぶやき、何も言わずに少女へ微笑み返した。

「あら、お邪魔だったかしら?」

「うわあああーー!!」

 突如割って入ってきた声に仰天し、ガイルは奥の壁まで後ずさりをした。

「マリンちゃん!お店の方はもう良いの?」

「ええ。常連さんばかりだったし、後はお父さんに任せてきちゃったわ。あんた達の事が気になってね。それよりセレナ、ガイルに何もされなかった?」

「す、するわけねえだろ!!お前はノックぐらいしろ!」

 思いも寄らぬマリンの発言に、ガイルは耳の先まで真っ赤に染めて否定する。彼女からすれば、逆にそれが怪しくも有るのだが。

「何の用だよ……俺達はそろそろ出かけるからな」

 平常心を装うガイルが、マリンへ向けて眉を顰めた。

「なによ、心配して来てあげたのに。だってあんた達、旅の途中だって言うのにお財布も持ってないじゃない!」

 彼の言葉に、腰に片手を当て口を尖らせるマリン。

「そ、それは……」

 これ以上下手な言い訳が難しいと判断したガイルは、成り行きの一部をマリンに。

 ゼロムの行動、そして今の所予想でしかないが、ピィチの居場所をセレナにも話す事にした。

 

 

 水平線に浮かぶ夕日が、白壁の港町全体を緋色に染める。

 薄紫と金色の層を成す空を背に、一筋の光の道を描き海面へと溶けゆく様は、セイル=フィードでも三本の指に入る程の美しさである。

 昼間のうちは賑やかだった通りも、今となっては静けさが包み、その代わりに周辺の家々の小さな窓からは、温かな灯りと談笑が漏れている。

 海の花亭の一階からも、食欲をそそる香ばしい香りと共に、活気溢れる声や皿のぶつかる音が次第に増えてゆき、二階奥の部屋へも賑わいが伝わってきた。

 

「で——そのゼロムとか言う商人が荷物を盗んだ上に、あんた達の友達を、あのインチキ大僧正……ジョウガンに売ろうとしてるって?」

 低い木製のベッドに腰掛け話を纏めるマリンに対し、ガイルが「ああ」と頷いた。

「そんな……はやくピィチちゃんを助けに行かなきゃ」

「ま、まあピィチの事は予想でしかないけど、そいつらに会えば何か分かると思うんだ。アイツのことだから、セレナを措いて他の所に行くとは考えにくいだろ?」

 隣で顔を伏せてしまったセレナを宥める様に、ガイルがあたふたと付け加えた。

「なるほどねえ」

 流れを把握した様子のマリンが、指を頬に置きしばらく考え込んでからつぶやく。

「でも、ジョウガンに会うのは大変よ。彼が気に入るような代物を持っていかないと、寺院の扉すら開けてくれないわ。当人は水神様への捧げ物だとは言ってるらしいけど——」

「それだ!!」

 突然大声を張り上げたガイルに、少女達はぎょっと目を見張った。

「なあ、マリン。お前そのジョウガンってやつに好かれてるんだろ?なら……」

「い・や。」

 彼が要件を述べる前に、即座に却下するマリン。

 

 しばしの静寂が部屋を包む。

 

「——な……なんでだよ!」

 先に静寂を断ったのは、不満に顔を歪めるガイルであった。

「これだけ話してやったんだから、少しは手伝ってくれても良いだろ!!」

「いやよ!あんなエロ親父に自ら会いに行くなんて、冗談じゃないわ!だいたいお金を盗まれるなんて注意が足りな過ぎるんじゃない!?」

 またも繰り広げられるガイルとマリンの口喧嘩。

 二人の間でしばらくその様子を眺めていたセレナだったが、飛び交う罵声の回数が増えるにつれ次第に項垂れてゆき、仕舞にはすっかり落ち込んでしまった。

「ケチ!!」

「なによ!!」

 いがみ合いがいよいよピークに達しようとしたその瞬間……

 一つのメロディーが、ふわりと部屋一面に広がった。

 

 直後に、長く続いていた口争は終止符を打ち、二人ともただ静かに心地良い旋律に耳を傾けていた。夕凪後の涼風が運ぶ音色は、ガイルとマリンを優しく包み込み、高ぶる心に穏やかさを齎す。

  場を和ませる為にとセレナが咄嗟に紡いだ音色は、彼女の最も得意とする、温かく懐かしいセイル=フィードの子守唄であった。

 今まで強気の態度を見せていたマリンは、ふと彼女らしからぬ面持ちに変わり、静かに目を伏せる。

「……ガイル、ごめんなさい。それにセレナも……ありがとうね」

  突然の謝罪に困惑し、ぽりぽりと頬をかくガイル。

「あ、ああ。こっちこそ悪かった」

  セレナは瞼の裏から二人の様子を察すると、歌を止め瞳を開けた後、ほっと一息ついた。

 

「子守唄かあ。懐かしい」

 そう言って、マリンは部屋の片隅にある机の方へと歩みを進める。そして、憂いの表情を浮かべる彼女が手に取ったのは、一枚の絵が収められた小さな木製のフレームであった。

「よくお母さんが歌ってくれたっけ。それに……弟に聴かせてやった事もあるわ」

「マリン?」

 セレナとガイルは互いに目を見合わせる。

 窓から流れ込む風が、二人に背を向け佇むマリンの美しい金の髪を優しく梳かし、その背には何故だか哀愁が感じられた。

「セレナ、ガイル」

 静けさの中で、ふいに名を呼ばれ顔を上げる二人。彼女は、僅かの間に随分大人びてしまった様にも見え——

「あまり時間は無いと思うけど、少しだけ考えさせて」

  先程まで張り合っていたガイルですらも、返答以外の言葉を掛けられる雰囲気ではなかった。

 

 

 太陽は既に水平線に姿を隠していた。

 緋色と瑠璃色、二色のグラデーションを成す空は、目を凝らすと薄っすらと星々の輝きが見て取れる。

 眼下に広がる海原からは波の音だけが響き、美しくはあるが、その情景は不思議と切なさと物悲しさ運んできた。

 

 マリンを部屋に残し、海の花亭を後にしたセレナとガイル。

 予定外の時を過ごしてしまったものの、行くべき場所は唯一つ。上層階最北部に位置する、この町一の大きさを誇る寺院、そしてジョウガンと呼ばれる大僧正のもとである。

 道中、二人の間に交わされた会話といえばごく僅かであった。セレナもガイルも、マリンの急な様子の変化が気掛かりだったからである。

「なんだか、悪いことしちゃったかな」

 なだらかな坂道を上がり終えた所で、セレナが俯きながらぽつりとつぶやいた。

 自らの歌った子守唄が、彼女を落ち込ませてしまったのでは——そんな想いが、少女の小さな心を締め付けていたのだ。

 先を歩んでいたガイルは、セレナへ振り向き立ち止まった後、歩幅をあわせる。

「よくは分かんねえけど、あいつにも色々と事情があるんだろうな。俺が誘わなければ良かったんだし、次に会った時にでもちゃんと謝っとくか」

 そう言って彼は、俯き頷く少女の頭をふわりと撫でた。

 

 家屋からの賑わいが通路にまで溢れていた中層階と比べると、上層階は静かなものだった。

 四角形の小さな窓から灯りこそ漏れてはいるものの、住民の会話といえば皆無に等しく、人気の無い通路で耳を済ませると、どこからとも無く祈祷の様なものが聴こえてくるのみである。どうやら上層階に並ぶ家々の殆どは、シエルに身を置く僧侶達が利用しているらしい。 

 そして、この通りの最も奥——

 目的地である大寺院を目の当たりにして、セレナとガイルは呆然としていた。

 

 町のどこからでも目に入る大きさである事は見知していたが、小さな港町の寺院と言うよりは、一国の宮殿さながらの絢爛豪華な造りである。

 白を基調とした壁面には、鮮やかなタイルが少しのずれも無く配置され様々な文様を描いており、寺院を守るようにして、空へ向け真っ直ぐに伸びる柱が四隅に設けられている。

 碧色のドーム型の屋根を備えた、一際目を引く円柱の建物が本堂のようで、その前に聳えるアーチ状の立派な石門の両端には、二人の僧侶が佇んでいた。

  しばらく呆然と見入っていたガイルだったが、ハッと我に返り辺りを見回した。

 

「セレナ……あれ、見てみろ」

 門を守る僧以外、周囲に人気は無いものの、ガイルは声を押し殺してその方向を指差した。

「あ!ゼロムさんの牛車……」

 セレナの言葉通り、ゼロムの荷車が寺院の壁と大きなヤシの木の陰に、まるで人目を遮るかのように停められていた。

 二人は石門前の僧達に気付かれないように、木を利用しつつ荷車へと歩み寄る。

「貨物は全部運ばれたか。けど、あいつがここに来てる事はこれで確かだ。マリンが言う噂が本当だとしたら、俺の予想もあながち間違いじゃないかも知れないな」

「じゃあ、ピィチちゃんも……でも、何も持ってないけど中に入れてくれるのかな」

 ガイルは少しの間考え込んだ後、突然牛車の荷台を漁り出した。

「ガイル?」

「お——あった!セレナ、これ被ってろ。中に入っても絶対取っちゃだめだぞ」

 そう言うなりガイルは、目を丸くするセレナに、荷台から探り当てた暖取り用の毛布を頭から被せた。

「竜人族の俺なら、なんとか通してもらえるかもしれない。……何が起こるかわからないし、正直セレナには宿で待ってて貰いたいけど、そうもいかないだろ」

 毛布から顔だけを覗かせたセレナは、ガイルの問いにこくこくと頷く。

「だよな。よし、じゃさっさと行動に移るか!」

「うん!」

 

 門の奥に見える内部へと続く扉は、遠目から見ても立派なものであったが、近付くにつれ鮮明になるその大きさには目を見張るものがあった。

 厳格な面持ちで合掌をしていた一人の僧が、薄暗い闇からふいに現れた二つの影に目をやる。

「祈りを捧げに参られたのか?」

「ああ、いや。大僧正に用があるんだ」

「ふむ……」

 短く尖った耳に獣族に似た瞳、見慣れぬ風貌の少年を片目で確認する僧侶。

「しばし待たれよ」

 言い放つなり、僧は扉の中へと姿を消した。

 凝った言い回しが浮かばなかった為かなり率直ではあったが、ジョウガンと話を付けているのだろうか。緊張から唾を呑むガイル。それは、後ろで毛布に包まっているセレナも同じである。

 すると、そこへ先程の僧が戻ってきた。

「大僧正からの言伝では……如何なる理由であろうとも、水神インディゴ様への貢物が無い限りはお引取り願いたいとの事だ」

 やっぱりか、と項垂れるガイル。

 その様子を少し後ろで見ていたセレナが、彼の裾を引っ張り小声でささやく。

「(ジョウガンさんはお金と女の子が好きなんだよね?私ならなんとかなるかも)」

「(……いや、だめだ。セレナは、だめだ)」

「(えっ?)」

 金好き女好きな男など、僧侶とはいえろくなもんじゃない。噂と言えどそんな男にセレナが捕まったら……きょとんとする少女を前に、少年の脳裏にあれやこれやとあらぬ妄想が過る。

 取り敢えず今日の所は引き下がろうと、ガイルがセレナの手を取り踵を返した。

 と、その時——

 

「ジョウガン様にはお会いできるかしら?」

 背後から澄んだ声音が響き、その場に居る皆がそちらへ目を向ける。

「お、お前っ……!」

 そこには、緩く波打つ金糸の髪をゆったりと下ろし、華やかな装飾の施されたショールに身を包んだ美しい少女——マリンが、星空を背に微笑んでいた。