第三十九話 運命<さだめ>と宿命

 金色<こんじき>の瞳、それは純血の魔族の証。

 黒鳥と人を継ぎ接ぎのごとく無理矢理結合させたかのようなそのいでたちは、奇怪でありながらも芸術的で、これまで出会った魔獣や妖魔とは明らかに段違いのオーラを纏っている。穏やかな黒髪の青年チヨマルの面影を僅かに残した黒翼の魔族は、光を失った冷徹な眼差で、上空から地上の二人を見下ろしていた。

「おい女」

 呆然と立ち竦むセレナの隣で、鉄爪を構えたキスケが不意に口を開いた。

「俺が奴の相手をしている間に札を持って帰れ。傍に居られても邪魔なだけだ」

 突き放すような態度にセレナは一瞬眉を顰めたが、無事に札を持ち帰る為には彼の提案が最善策なのかもしれないと、納得しようとした。けれど——

 頷きかけた少女の脳裏に、見知らぬ地で戸惑う自分にとても親切にしてくれた、チヨマルの優しさがふと思い浮かんだ。

 微笑みかけてくれた、気遣ってくれたあの青年の姿が、両眼から金光を放つ目の前の魔族と重なる。

 このまま帰れば彼らは傷付けあうに違いない。たとえその理由が、自身に拘わりのないことであろうと。

「……セレナ殿」

 名を呼ばれ面を上げるセレナ。その瞬間、少女の視線と金色の眼が交差する。

「大人しくそれを渡せば苦しまずに済む。これから始まるのは貴女には無縁の果たし合い。故に貴女を巻き込みたくはない……セレナ殿、どうか拙者の願いを聞き入れてはくれませぬか」

「チヨマルさん……でも、これは……」

 戸惑い。魔族とは到底感じさせぬ穏やかな囁きに、セレナの心が大きく揺らぐ。強く握った白の札が、汗ばむ手の中で湿りを帯びる。

 彼女が答えを躊躇う理由、それは、言われるがままに札を渡してしまったら何故だか自分自身に負けてしまうような、そんな気がしていたからだ。それに同意したところで二人の意思は変わらないだろう。なぜ二人は対立するのか。セレナは理由を知りたかった。

 微かな木々のざわめきが、沈黙と静寂をより鮮明なものにする。

 依然として張り詰めた空気が留まり続ける空間に、その時は、突如として訪れるのだった。

「……寄越せぬのならば仕方あるまい」

「——!?」

 朗々とした声が響くとともに、チヨマルの背後から闇のヴェールが現れた。

 漆黒の闇は、粘り気のある黒色の塗料のごとく、ホール状の空間に存在している木々も、獣を模った像も、社ですらも徐々に塗り替えてゆく。

 不意の出来事にたじろぐセレナと、身構えるキスケ。二人は広がりゆく闇の浸食を止める術もなく、チヨマルの作り上げた世界にいとも容易く吞み込まれてしまった。

 二人が気付いた頃には、チヨマルの姿は目の前から消え失せていた。しかし、魔族特有の禍々しい気配はすぐ近くに有る。闇と、同化する力——

「ふん、何も変わっとらんな」

 隣でキスケが意味深な笑みを浮かべる。

 同時にセレナは、彼も自身の姿も、この漆黒の闇の中であってもはっきりと確認できることに気付いた。

 黒で塗り潰された虚無の世界。取り残された二人は、互いに警戒の眼差しを周囲に向ける。延々と続く暗闇の中、どれほど目を凝らしたところで何かが見て取れる訳でもないが、今はそうする他になかった。

 身動きすら無意味な現状、故に、全ては相手の出方次第なのである。

「セレナ殿。もう一度訪おう」

 そこに、チヨマルの声のみが響き渡った。

「札さえ渡せば無事に還れる。無事に……仲間の元に戻りたくば、迷いなど生じぬ筈。もし抗うのであれば──言わずもがな。さあ、里で待つ仲間の為に、札を置いて去るのです。あなたの愛する彼らの為に……」

「チヨマルさん……それは違うよ」 

「なんと?」

 思わぬ返答に、チヨマルは声を曇らせた。

「みんなの所に帰りたい。それは事実。けれど、私はこの試練を乗り越えると決めて、みんなは私を信じて待っていてくれている。何も得られないまま、何も変わらないままで戻っても、それは誰の為にもならない。私は、今ここにいる意味を知らないままでは帰れない……」

「たとえ殺しあう事になろうとも?」

 ふいに問われたセレナは、瞳を滲ませ頭を垂れた。

 あの穏やかで心優しいチヨマルという青年から、その様な残酷な言葉を聞かされるとは思わず、少女は、過酷な現実を突きつけられたような気がした。

 争いの先にある真実を知るためには、避けられぬ運命さだめなのかもしれないと。

「そう……やはり魔族と人は相容れぬ仲。人と魔族の子を残そうなど世迷いごとにしか過ぎぬ!」

 チヨマルの呟きに思わず面を上げるセレナ。

「我々は期待をし過ぎていたのやも知れぬ……やはりあの時・・・根絶やしにしておくべきであった。ゆくぞ──おぬしらが我らよりもこの地を生きるに相応しい存在か、証明してみせよ!!」

「避けろ!!」

 チヨマルとキスケの鋭い咆哮が、ほぼ同時に木霊する。

 体を押し飛ばされる衝撃とともに、地面に勢いよく倒れこむセレナ。直後、二人が立っていたその場所に無数の刃が激しく降り注いだ。刃の正体は羽根の形の“影”であった。鋭利な刃物と化した影は、青褪めたセレナが見詰める前で、地面に吸い込まれ音もなく消えてゆく。

 続けざまに両側の闇が再び波紋を描き始めたかと思えば、先の倍以上の数の刃が隆起し、二人へ目掛けて一斉に打ち放たれた。

 空間の変化を即座に察知したキスケが、セレナを抱えて後退し間一髪のところでそれを避ける。獲物を射止めることなく、再び静かに地面と同化してゆく影の刃。キスケは、その行方を見届けながらセレナから離れると、軽く息を吐いた。

 彼は苛立っていた。なぜなら他人を庇いながら戦うということに慣れていなかったからだ。そしてセレナもまた、彼の感情の変化に気付いていた。

 このままではいけない。守られてばかりでは、この場所に居る意味がない——

「おい」

 抑揚のない声がセレナを呼ぶ。

「戦う気がないなら潔くくたばってくれた方がマシだ。俺はガキを庇うつもりはないからな。それが嫌なら迷いを捨てろ。相手が血も涙もない魔族だということを忘れるなよ」

「血も、涙もない……」

 二人の周囲の闇が蠢く。

 チヨマルの無慈悲な攻撃が、再び始まろうとしている。

「けれど……それでも私は諦めたくない……あの人ならきっと分かり合えるはず。私のお父さんとお母さんがそうだったように……だって、あんなに優しい人だもの……!」

「まだ寝言を言っているのか!!」

 尚も思い迷うセレナへ向けて、キスケはとうとう声を荒げた。

「俺が居なければ貴様は二度死んでいた。その相手に対して優しいだと?相手が優しいから自分は助かったとでも言いたいのか?甘えるな!奴等はあの日——七年前から何も変わっていない。貴様の言うチヨマルがどんな男かは知らん。だが俺の知るあいつは、今と変わらぬ残虐非道な魔族だ。……奴は人の心を読める。大方、惑わされていたんだろうよ」

「…………」

 闇の中に小ぶりの波紋が複数浮かび上がる。それら全てが一斉に隆起し、徐々に刃が現れ出る。直撃でもすれば、次こそ死を免れぬ数である。

 キスケは徐に顔の前に指を立てると、目を瞑り独特の呪文を唱え始めた。途端に、彼の周囲に紫色の光を帯びた無数の"蝶"が姿を現す。闇にぼんやりと浮かび上がる光の蝶は、息を吞むほどに神秘的である。

 しかし黒の刃は、息をも吐かせぬ凄まじい速さで蝶の群れへ向かってゆ——次の瞬間、躊躇なく群れの中心部に降り注いだ。

 光の蝶達は、まるで花弁のようにはらはらと地面に散り落ちて、そのまま儚く姿を消した。

「同じ手は食わぬか……」

 闇に反響するチヨマルの声。

 蝶が消え去ったその場所には、セレナとキスケの姿は跡形も無かった。二人が攻撃を避けたのではなく、黒の刃は蝶に欺かれ無の空間を貫いていたのだった。

「何時までこそこそと隠れている。好い加減姿を現したらどうだ」

 愕然とするセレナの隣で、キスケが闇へ向け叫ぶ。すると、漆黒の一部から鋭い嘴と大きな黒翼を携えたチヨマルが、ぬるりと現れた。見開かれた眼は金色の閃光を放ち、不気味さをより一層際立たせている。

「威勢を張っていられるのも今の内……直、地獄を見ることになろう。それまでこのチヨマルが相手をしてやる。直ぐには死なせぬ。悶え苦しみ息絶えるその直前まで、おぬしらの力を存分に試させてもらおう!」

「流石は魔族だな。恐ろしい台詞を簡単に言ってのける」

 キスケはふっと薄ら笑いを浮かべると、背負った鞘から抜刀する相手の一瞬の隙をついて、目にもとまらぬ速さで懐に潜り込んだ。

「待つのは苦手でな」

 次の瞬間、キスケの鉄爪が勢いよくチヨマルの腹を貫く。金色の眼を剝き出しにして後退るチヨマル。

 仕留めたか——のように見えたが、キスケはすぐさま後退しつつ体制を整え直した。なぜなら、一切の手応えを得られなかったからだ。

 そう、鉄爪が貫いたのは、チヨマルの姿をした“影”であった。

「皮肉なものだ。其方とはやはり気が合うらしい」

「キスケさん……!!」

 セレナの絶叫が後方から響き渡り、向き直ったキスケの頬をチヨマルの得物が掠めた。不気味に発光する緑色の妖気を纏った長刀を自在に操り、続けざまに素早い斬撃を繰り出すチヨマル。キスケはそれらを後転し避けながら、反撃の機を狙っていた。

 相手は人の心が読める。故に、不用意な行動は命取りになるだろう。敵の特性を知っている彼だからこそ、この凄まじい猛攻を避け続けることが可能なのであった。 

 

 ——今しかない。

 セレナは、彼らから離れた場所に移動すると、激しい攻防を何とか目で追いながら胸の前で手を組んだ。相手に手加減などない。迷いを捨てなければならない。本当に、皆の元に帰りたいのなら――

 瞼を強く閉じたセレナの体を、淡い緋色の光が包み込む。彼女は出来る限り気配を消しながら、フェニックスの召喚呪文を唱え始めた。

 しかしその刹那、セレナの頭上の闇が再び渦を描き始めた。

「ちッ!」

 逸早く察したキスケが、チヨマルの攻撃を避けながら彼女の元へ向かおうと試みる。だが、チヨマルは彼の注意が逸れる隙を狙っていたのだ。

 仕舞った——そう思った時には、キスケの脇腹を長刀が貫通していた。

 

「——」

 

 どさりと、その場に倒れるキスケ。

 ふいに訪れた沈黙に瞼を上げたセレナは、すぐさま状況を理解した。

「……やはり、他人を庇いながら生きるというのは、性に合わぬようでござるな。キスケ殿」

 チヨマルは、苦痛に耐えながら伏せるキスケに徐に歩み寄ると、片膝をついて耳元に囁きかけた。

「嗚呼——良い表情をしてくれる。憎しみに満ちた良い眼差しだ。やはり其方を殺してしまうのは少々惜しい……目障りな女の方は我が葬ろう。我等と共に歩む道を選ぶのだ。……その右目を蝕む“呪い”を解いてほしくばな……!」

「やめて……!チヨマルさん!!」

 二人の元にセレナが駆け付ける。セレナは、そのままの勢いで思い切りチヨマルを押し退けると、蹲るキスケとの間に割って入った。思わぬ妨害を受けて、チヨマルは殺気に満ち溢れた眼で彼女を見下ろす。

 再び交錯する二つの眼差し。しかし先ほどと異なる点が一つある。それは、強く見開かれたセレナの瞳の奥に揺らめく炎の存在であった。

「札は渡せない……けれど、ここを去ることもできない。お父さんも、おキクさんも、あなた達も……なぜ皆理由を語ってはくれないの?」

 セレナの足元に、淡い光が終結してゆく。

「私は何も知らないまま、ここにいる意味を知らないままでは帰れない。この争いの先に真実が有るのならそれを見届ける必要がある。チヨマルさん……あなたはもう私の知っているあの人じゃない。私に優しくしてくれたチヨマルさんは、人が苦しむ姿を見て悦ぶような人じゃない……だから——ごめんなさい。あなたには制裁を加えなければならない——」

 チヨマル、そして手負いのキスケは、歴然とした少女の変化に息を呑んだ。

 温かな光に包まれながら相手を見据えるその様は、つい先程まで怯えていた幼い少女の面影など微塵も感じさせない、まさに堂々たる姿である。

 まるで、何者かに憑依でもされたかのような——

 

 漆黒を縫うようにして光の曲線が魔法陣を描く。それが完成された時、溢れる輝きと共に勢いよく生れ出たのは、額に立派な角を持つユニコーンであった。