第二十六話 悪夢との再会

 コツンと、何かが頬に当たる小さな衝撃によって、ガイルは静かに瞼を上げた。

 

 激しく痛む頭を押さえながら徐に上半身を起こす。

 頭だけではない。脚も、腕も、全身にズキズキとした痛みを感じて目を向けると、体中の至る所から出血しており、彼は思わず苦悶の表情を浮かべた。背後に高い土崖があることから察するに、足を滑らせて転落したらしい。

 顔を上げ辺りを見渡す。どうやらリースの森ではないようだ。しかし、鬱蒼とした森の中に違いはない。

 激しく体を打ち付けたことによって目を覚ました彼は、ここにきてようやく、自身は幻影によって操られていたのだと気が付いたのだった。

 泥にまみれた掌を、虚ろな眼差しでぼんやりと見詰めながら、ふと思う。

 一体どれ程の間、眠っていたのだろうか……

 

「眠って……た?」

 心の声を言葉にした次の瞬間、ふいに我に返ったガイルは勢いよく立ち上がった。

「ま、まずい……!セレナ!?」

 全身の痛みすらも忘れて、再び辺りを大きく見回す。

「セレナー!!ピィチーー!!」

 崖の上へ向け何度も少女達の名を呼ぶが、返事はおろか人の気配すら全く感じられず、自身の発した切羽詰まった叫声だけが、ただただむなしく土の壁に反射して戻ってきた。

「……」

 もう、この森には居ないのだろうか。

 先程の出来事を思い出そうとすると、再び頭が激しく痛みだす。それでもガイルは顔を歪めながら、存在し得る筈のない魔獣と相見えたあの時間をなんとか思い起こそうと、汗ばむ額に手を当てた。

(そうだ……俺はセレナとピィチを放って、魔獣を追っていったんだ)

 幻とはいえ、もし彼女達の前にまたあの異形が姿を現したら?

 それだけではない。実在する魔獣や野生の獣だって、当たり前のように潜んでいるのだ。もし群れにでも遭遇したら?

 帰り道が分からずに彷徨っているかもしれない。この深い深い森の中を——

「まあ……セレナは俺なんかより強いから、心配ないか」

 目を伏せ、小さく呟いたその口元は、なぜかほころんでいた。

 

 ふと、ある違和感を覚えたガイルは、視線を上方へと移した。

 樹枝の隙間から窺える空は、未だ青空とは程遠いものの、雨は既に上がっている。しかし、どこからともなく響く、激しく台地を打つ雨音——いや、それよりも大きな、途絶えることのない水音。

 遠くはない、むしろ近くから聴こえる。ガイルはすぐさま音の響く方へと走り出した。なぜなら彼には、思い当たる節があるからだ。

 道などない。腰まで覆う草叢をかき分け、木々の間を荒々しく駆け抜けながら、無我夢中で。

 そして辿り着いた先に、ついに求めていたものが姿を現した。

「う……嘘だろ……」

 そこは、空を臨めることのできる開けた場所だった。

 足場はぬかるんだ土壌からいつの間にかごつごつとした岩場へと変わり、自然の力によって抉られた大きな窪みには、天からの僅かな光を受け散りばめられた宝石の様な輝きを放つ、コバルトブルーの澱みが広がる。

 そして、ゆるく弧を描く断崖に抱かれる様にして、水面へ向け一定のリズムを奏でる轟きと共に、一直線に落下する白絹の如く水流——

「まさか本当に……これが"願いの滝"?」

 その言葉の通り、紛れもなくそれはセイル=フィードに息づく誰もが憧れ、求め、一度は夢に見るであろう、神秘の景観であった。

 滝壺へ勢いよく流れ込む水柱によって生み出された水粒が、対岸へ向け鮮やかな光彩を放つ橋を渡す。まさに、壮大な旅を経て辿り着いた冒険者を祝福しているかのような美しさである。

 

 あまりに突然に、視界へ飛び込んできた思いがけない光景に、ガイルは先ず我が目を疑った。ぽっかりと開いた口を閉じることも忘れ、ゆっくりと、深青の水辺へと歩みを進める。このとき不思議と、体の痛みは消え去っていた。

「本当にあったんだ……はは、こんなに簡単に見つかるもんなのかよ。伝説の場所が……」

 緩やかに波打つ水鏡に自身の姿が映る。泥にまみれ、傷だらけにながらも、真紅の瞳は未だ輝きを失ってはいない。

 しばらくの間、幻想的な空間に身を委ねていたガイルだったが、この森へ訪れた理由をふと思い出し、徐に顔を上げた。

「そうだ……願いを……俺の……みんなの……」

 言いかけて、彼はハッと我に返った。

(何をやってんだ……ゆっくりしてる暇なんてないのに。はぐれたセレナとピィチを探さなきゃいけないんじゃなかったのか?寝込んでいるマリンの為に早く帰らないといけないんじゃないのか?エリーゼさんとシェリルも、きっと俺が戻らないことを心配してる。ゼロム……は知らないけど、とにかくぼんやりしてる暇は……)

「……」

 心ではそう自身に言い聞かせながらも、ガイルは座り込んで中々立ち上がろうとはしなかった。もしも今ここを離れてしまったら、二度と戻ってはこられないかもしれない。計らずも、そんな思いが頭を掠めたからだ。

 

 訪れた者の願いをたった一つだけ叶えてくれる。たった、ひとつだけ——

「俺の願い……」

 ぽつりと吐いた言の音は、轟きにのまれ消えてゆく。

 それ以上の言葉を口に出すことが出来ない訳は、己自身が一番よく分かっている。なぜなら、この旅を決意した一番の理由がそこにあるのだから。

 水面に映る自身の顔が、徐々に思い描いていた人物へと変貌してゆく。ガイルはただ静かに、変化してゆく自身の姿を見届けていた。そして、それが鮮明に映し出されたとき——

 突如息苦しくなるほどの悪寒が背筋を駆け巡った。

「ッ……!!」

 刹那、我に返ったガイルは咄嗟に後方へ退いた。水面に映し出されたままの姿——魔族であり義兄である赤眼の男が、薄笑いを浮かべながらこちらを見ているのだ。

 また幻覚を見ているのか?いや、そんなものではない。この憎悪に満ちた禍々しい気配、明らかにヤツはここにいる!

「あ……兄貴……いるんだろ!ずっと待ってたんだろ!?俺が一人になるのを!」

 

「さすが俺の弟。察しが良いじゃねえか」

 

 地の底から湧き出た様な低音が、脳に直接語り掛けてくる。

 冷や汗が頬を伝う……魔獣と対峙したときとは比べ物にならないほどの汗が、足元にぼたぼたと零れ落ちてゆくのがわかる。

 それまで留まっていた場所の深青の水面が、見る見るうちにどす黒く泡立ちはじめ、その中心から漆黒の妖気を纏って、魔族の男——ロアは姿を現した。

 皮肉めいた冷笑を浮かべながら現れた男を、血走った眼で捉えるガイル。まさかの再開に彼は、無意識のうちに震える手を左腰に備えた鞘へ回していた。

 しかし、直ぐさま目当てのものが存在しないとわかると愕然とした。

「おいおい、武器なんて必要ないだろ?"お前が呼んだんだから"」

「なっ……!?」

 ガイルは、ロアの謎めいた発言を受けて頭が真っ白になった。

 呼んだ?俺が兄を——?

 あながち間違いではないのかもしれない。

 正直、この森へ来てからというもの、兄のことばかりを考えていたのは事実。滝が実在するのなら、願いが一つだけ叶うのなら、苦労などせずに欲しいものを手に入れたいと思うのは、誰だって同じだろう。

 そして実際、仲間よりも自分の願いを選んだ——

「嘘だよ」

「はっ?」

 明らかに動揺している義弟の姿を眺めながら、ロアは突然大声で笑いだした。

「呼ばれたからなんて嘘に決まってんだろーが。言っただろ?お前が一人になって、阿保みてーにぼんやりしてる所を狙って来たってな」

「なん……ッ」

 心の奥底を見透かされたガイルは、頭に一気に血が昇るのが分かった。

 弄ばれている。そう気付いた途端に、なんだか小っ恥ずかしくなったのだ。それまでの重い空気から解放されたはいいが、なぜだか釈然としない自分がいる。しかし彼は、心のどこかで失意と安堵が交錯していた。

 願いが叶わなかったことと、まだ機会が残っているということに。

 

「さて、そろそろ本題に移るか」

「ッ……!!」

 

 背を向けたままのロアがそう言い放った瞬間、瞬時に空気が一変した。ほんの僅かでも和んだような空間が、再び瞬く間に息苦しい空間へとかわってゆく。

 徐に振り返った血の色をした眼に、光はない。

「ガイル、俺はなァ……正直なところ、できればお前を生かしておいてやりたいと思ってる。何度も言ってるだろ?一緒に来れば殺したりはしない。俺だってそこまで悪魔じゃねえ。まあ、魔族であるに違いはねえがな。どんなに……腐りきった血を継いでようが、お前は唯一の弟だ。俺はな、お前の全てがほしいんだよ」

 恍惚とした表情で話し続けるロア。しかし、全身から放たれる妖気は、言葉とは裏腹に殺気を纏った禍々しいものである。

「この機会を逃したら次はないと思ってる。今ここでお前が二つの選択肢の内のどちらかを選ばなければ、他に手段を考えないといけない。例えば、そうだなァ……王都の奴らを八つ裂きにするか、あの目障りなエルフ女を可愛がってやるか……」

 

「どうして……」

 

 俯いたまま、ガイルが静かにロアの言葉を遮った。

「どうして兄貴は……そんな風になっちゃったんだ?」

「あ……?」

 ふいに、望んでもいない返答に水を差され、思い切り眉を顰めるロア。

「どうして竜人族をそんなに嫌うんだ?あのとき……魔族が国に攻めてきたとき、初めて兄貴から血を分けた自分の弟だって聞かされて、正直俺は嬉しかった」

「……」

「おかしいよな?国のみんなが苦しんでるときにさ。それまで竜人族は俺一人だと思ってた。父さんも、集落のやつらもみんな黒竜戦争でやられたって。それが尚更嬉しかったんだと思う。たった一人だけでも、血が繋がっている"家族"が残っていたことが。だから死ねない。だからこそ抗うんだ。俺がやられたら、兄貴の家族が誰もいなくなっちまうから」

「黙れ…………」

「もちろん魔族にもなれない。兄貴の望みを叶えてやることは出来ないけど、俺は竜人族として生きていく。セレナや仲間達……国のみんなは、今の弱い俺にとってかけがえのない存在なんだ。もう一つの家族なんだ。だから、みんなを傷つけないようにする為にも、俺は兄貴の目をどうしても覚まさせなきゃいけない。もう無意味な争いはしたくないんだ……」

「黙れって言ってんだろ!!」

 言うなりロアは、突如ガイルの胸ぐらを激しく掴み上げると、そのまま剥き出しの岩肌に勢いよく押し倒した。ガイルはあまりの衝撃と激痛に、言葉にならないうめき声を上げる。

 ロアの狂気と増悪に満ちた眼差しが、顔を歪ませ涙を滲ませたガイルの瞳を捉えて離さない。

「お前がどう足掻こうが、俺は目なんか覚まさねえよ。やっぱりあのクソ親父の子供だな。なんでもかんでも正当化しやがって……!かけがえのない家族だと?傷つけたくないだと?笑わせるんじゃねえよ。都合が悪けりゃその"家族"とやらにも刃を向けるくせに。どうせ必要なくなったらあのエルフ女だって簡単に捨てるんだろ?いや、お前なら絶対にそうする。あの男が——俺の母親を殺したようにな!!」

「……!?」

 ふいに吐き捨てられたその言葉にハッとするガイル。それと同時に、首元を掴むロアの手が、一瞬緩んだような気がした。

「なんて顔してんだよ。気に入らねえ……そうだ、今なら選択肢の一つに応えられるかもしれねえなあ?死んで竜人族の血を絶やすか……それとも、この状況でも抗えるっていうのか?あいつらのもとに帰れるっていうのか?この俺を、傷付けてでも」

「違う……」

「何が違うんだよ」

 小さくかぶりを振るガイルを、冷ややかに見下すロア。

「俺の旅は兄貴と争う為に始めたんじゃない……こんなの間違ってる……どうして向き合おうとしてくれないんだよ……!いつもはぐらかして、どうして何も話そうとしてくれないんだよ!?俺の願いは竜人族の血を絶やすことでも、魔族になることでもなんでもない……ただ兄貴の……兄貴の過去を知りたいんだよ…………」

 

 ガイルの頬を大粒の涙が伝う。その瞬間、突如静寂が辺りを包んだ。

 全てを見届けていた白銀の水流と共に、ガイル——そしてロアの間に流れていた時間が、一瞬にして止まったのだった。