第二十五話 霧中の幻象

「おじちゃん、あーそーぼっ!」

 ゼロムは、すぐ間近で響く甲高い声を耳にしながら、そっぽを向いて聞こえないふりに徹していた。

 

 彼が留まった理由、それは前日の口争がどうとかではい。闇取引を生業として裏世界で生きていた自分が、仲間だの友達だのと呑気に和気あいあいとしている子供達と、なぜか運命共同体となっている現状に聊か疑問を抱き始めていたからだ。

 たとえ噂話であれ、商人や砂漠を横行する悪党ども、それに止まらずセイル=フィードに息づく誰しもが一度は夢に見るであろう願いの滝。無論、ゼロム自身もそこへの到達が一つの目的ではあった。

 しかし天候や戦力が乏しい状況から察するに、たかが森探索だろうが、戦慣れしていない者が付いて行けばただじゃ済まないことは猿でもわかるだろう。今回に関しては止むを得ないとしても、このまま北部への旅に同行していれば、あわよくば無償で帝国入りが可能かもしれない——

 そう思って我慢してはいたが、ふと沸いた疑問が脳裏を掠める度に、なんだかそんなことどうでもよくなってきたのだ。

 

 しかし彼は今、滝探しに向かわなかったことを僅かに後悔してはいた。この声の主であるシェリル。

 彼女の体調には波が有るとエリーゼに聞かされてはいたが、具合が良い時はまるで不治の病などとは嘘であるかのように、年相応のパワフルな子供そのものだったから。現に“これ”は、休憩を入れながらではあるものの、セレナ達が出発してから三度目の誘いかけである。

 疲れ果てたゼロムが、リビングの長椅子に腰掛けながら渋っていると、シェリルの楽し気な声を聞きつけてか、庭に出ていたエリーゼが笑顔で戻ってきた。

「シェリルったら、ゼロムさんを気に入っちゃったみたいね。二人きりだと滅多にないのよ。こんなにはしゃぐなんて……わがまま言って、あまりお兄さんを困らせるんじゃないわよ」

 

 お兄さん……お兄さん……

 小太りな行商人の頭にそのフレーズだけが残った。

 

「し、仕方ねえなぁ」

 ぽりぽりと頬を掻きながらよっこいせと腰を上げるゼロム。単純な男である。

「もう一回だけですぜお嬢、アッシだって色々と忙しいんだから。そうだなァ、雨が弱くなってきたから今度はポーチにでも出てみますか」

「うん!有難うおじちゃん!」

 満面の笑みを浮かべるシェリルの小さな手を引きながら、ゼロムは砂漠での出来事を思い返していた。

 あの時——魔物から救ったパオの男に言われた、心からの有難うの言葉を。

 目的の物を手に入れる為には手段を選ばない貪欲な男、若い頃にはそう呼ばれていた時期もあった。しかし彼は、少しづつではあるが自身の変化に気付いてはいた。

 それが自身にとって嫌な感情ではないとことにも。

 

 

「やっぱり、何でも願いが叶う滝なんて実在しないのかしらねぇ」

 セレナの外套のフードの中から、ピィチの呟きが聞こえた。

「これだけ歩いても見つからないんだから、本当にたんなる噂だったのよ!なんだか疲れてきちゃったわぁ、アタシ。お腹も空いてきちゃったし~……ねえねえ、いい加減そろそろ帰らない?」

「お前はセレナの肩に留まってるだけなんだから疲れるワケないだろーが……」

 ピイピイと自問自答をしているおしゃべりな彼女を、ガイルがジト目で睨んだ。

 あれから何時が過ぎただろうか。

 霧のかかった、似通った景色の中を延々と歩き続けたセレナとガイル。幸い雨は小雨程度になってはいるものの、視界の悪さのせいもあり、一度通った場所に戻ってくることも何度かあった。その度にガイル、そして言い出したセレナですらも落胆し、永遠に目的の場所に辿り着けないのではと思うようになっていたのは事実だった。

 そんな子供達を後押ししていたのは、宙を舞う水粒に反射して森全体をぼんやりと照らしている、樹枝の隙間から僅かにこぼれる明かりの存在だろう。

 未だ帰るには早い……簡単には諦めたくない。森の中を歩き回るうちに、二人にはそんな気持ちが微かに芽生えていた。たとえ想いは異なっていたとしても。

 

 ふいに、生暖かい風が吹き抜けた。

 

「ねえガイル……少し変じゃないかな」

「どうした?セレナ」

 獣道の途中、突然足を止めたセレナに、ガイルは振り向いた。当の彼女はと言うと、きょろきょろと辺りを見回して不安げな表情を浮かべている。

 不安になるのも無理はない。こんなにも広く静かな未踏の場所にたった二人——ピィチを含めてだが、気を抜いたら直ぐにでも深淵の森に吞み込まれてしまいそうなこの現状を、快く思う者などいる筈がないだろう。セレナは、大きな瞳を更に開眼しながら、ガイルの外套の裾を震える手で掴んだ。

「せ、セレナ?なん——」

「ここ……なんだかリースの森に似てる……」

「え?」

 彼女の言葉に、ガイルはそれ以上の言葉を失った。

 有り得ない……そう思いながらも、セレナと同じように辺りを見回した彼の目に飛び込んできたものは、信じ難いことに確かに覚えのある風景だった。

 数年前から幾度となく巡回に訪れていた、緑あふれるリースの森。育ちの場であるセレナは勿論のこと、ガイル自身も見間違える筈はないと確信していた。

 あまりにも急な状況の変化に、息をのみ呆然と立ち尽くす子供達。ふと真下に目を移すと、いつの間にか絨毯さながらのヒカリゴケが競い合うようにして群生しており、そんな二人の足元で、どこからともなくやってきた二羽のうさぎ達が、楽しそうに戯れはじめた。甲高い鳴き声が響き渡り顔を上げると、離れた木々の影から数頭の仔鹿が姿を見せ、つぶらな瞳でこちらを窺っている。

 小鳥の羽音や囀り、そして軽やかに舞い踊る無数の精霊達。先程の森から一変したその光景に、おしゃべりなピィチですらも絶句している様子だった。

 しかし、子供達の馴染みのある神秘の森とは明らかに異なる点があった。

 湿気を含んだ、生ぬるい空気——

 生き物達が戯れる和やかな雰囲気とはあまりにもそぐわない、違和感を運ぶ気味の悪い風。

 それはリースの森であって、リースの森ではない。セレナとガイル、そしてピィチは、この感覚を鮮明に覚えていた。

 忘れるはずもない。あの"始まりの夜"のことを。

 

「……いけない……」

 

 セレナのか細い呟きとほぼ同時。

 鳥も、仔鹿も、精霊も、突如奇声にも似た鳴き声を上げながら、一斉に濃い霧の中へと逃げ帰ってゆく。不気味なまでの静寂に包まれた空間には、不快を誘う息苦しい風がゆるゆると流れ、木々は騒めき、生ぬるい空気は徐々に禍々しいものとなる。

「ちょ、ちょっと、どうなってるのよ!?こ、これってまさか……」

 セレナの肩の上で、ピィチが確とした予感を言いかけたその時だった。

「セレナあぶない!!」

「!!」

 叫声と共に、隣で立ち尽くすセレナの華奢な体を、思い切り自身の方へと引っ張るガイル。刹那、激しく倒れ込んだ二人の上空を、巨大な何かが轟音を響かせながら物凄い速さで過ぎ去っていった。

 勢いをつけたまま真っ直ぐに霧の中へと姿を消したそれは、恐る恐る顔を上げたセレナにとって、初めて感じた凄まじい恐怖を思い起こさせる"何者かの得物"に違いなかった。

 何者か——その姿が彼女の脳裏に鮮明に映し出されたとき、霧の中からゆっくりと現れた異形の存在に、子供達は愕然とした。

「おい……何でこいつがここにいるんだよ……!」

 金色こんじきの眼をぎらつかせ、子供達ににじり寄ってきたそれは、紛れもなくあの夜に倒したはずの魔獣であった。

 咄嗟に立ち上がり体制を整えたガイルは、セレナを庇うように剣を抜き構える。目前に迫りくる相手へと険しく鋭い眼差しを向けるが、彼は密かに動揺していた。なぜなら未だ状況を呑み込めずにいたからだ。

 汗と雨粒が混じり合い、頬を伝って地面に落ちる。その間にも、牡牛にも似た頭部を持つ魔獣は、恐ろしいまでの殺気を放ちながら、子供達の方へ徐々に近付いてきている。

「ガイル……も、もしかしてこれって……」

 背後のセレナが、ガイルの外套を再びきゅっと掴む。

「心配するな!今度こそあいつは俺が倒すから。お前らはあっちの岩陰に隠れてろ」

「あっ……!」

 何かを伝えかけたセレナを制したのは、存在し得る筈のない魔獣の出現によって心乱されたガイル本人であった。彼はそう言い放つなり、構えた剣を振りかざして異形の進行を阻むように立ちはだかった。

「またやられに来たんだろ?お前なんか一太刀で十分だぜ」

『グウウウーー』

 魔獣は荒々しく鼻息を吐いた後、隆々とした腕を乱暴に振り回した。それを寸での所でひらりとかわすガイル。攻撃方法も、素早さも、あの時と何も変わっていない。無限の砂漠での、巨大ワーム達との防衛線を経た彼にとって、その攻撃はほぼ止まって見えた。

 勝利を確信した、ガイルの剣を握る手に、一気に力が込められる。彼はあの日の夜と同じように、そばにある岩を足場に思い切り飛び上がると——

「消えろォォォーーーー!!」

 魔獣の頭部に、全体重をかけた剣を振り下ろした。

 

 次の瞬間、ガイルと岩陰に身を潜めていた少女達は、驚きのあまり目を丸くした。

 剣刃が音もなく、魔獣の頭のてっぺんから足先までを通り抜けて行ったからだ。

「なん……」

 空を切ったような手応えに、顔を上げて呆然と相手を見やるガイル。深手を負わせた筈の魔獣には傷一つなく、先と変わらぬ鋭い眼光でこちらを見下ろしている。

 そして、再びその丸太の様な腕を徐に掲げた。

 

「違う……あれは"私の幻じゃない"」

「セレナ?どういうこと??」

 岩陰に身を隠し、無我夢中で剣を振り回すガイルを見守る少女達。伏し目がちにそう呟いたセレナの顔を、ピィチは豆粒の様なまん丸の瞳で窺った。

「はじめはリースの森もあの魔獣も、私の心の弱さが作り出した幻影だと思ったの。多分、それは間違いじゃないかもしれない。リースの森に関しては……もしかしたら、私が作り出した幻に、ガイルとピィチちゃんを巻き込んでしまったのかも」

「幻を作り出す?セレナってばいつの間にそんなことが出来るようになったの?」

「ううん、それは私の力でもなんでもなくて、この森のせいじゃないかな。滝を探しに来た人たちも、同じように幻影を見て、森に呑まれてしまった。そして今、ガイルがそうなりつつある……あの魔獣を動かしているのは、きっとガイル本人だから……」

「そんな……もしそうだとしたら、早くアイツに伝えないと!」

「うん、簡単に伝わればいいんだけど……」

 セレナはこくりと首を縦に振り立ち上がると、口元に手を当てた。

 

 しかし、時は既に遅かった。

 少女達の制止の声もむなしく、ガイルは虚構の敵への攻撃を緩めようとはせず、ただひたすらに空を切り裂いている。狂気すら感じさせるその表情は、セレナもピィチも、声を掛けるのを躊躇うほどであった。

「お前は俺が倒す……セレナを助けるんだ……!お前は俺が……!!」

「……」

 セレナは、狂った機械のように一人呟き続ける彼を見詰めながら、水晶のペンダントを強く握りしめた。

 そして、しばらくそれが続いた後、魔獣の姿をしたそれは徐に踵を返した。

「逃がすかよ!!」

「ガイル!?」

 なんとガイルは、少女達の見守る中で、その背を追って走り出したのだ。

「待ってガイルあぶないよ!こんな所ではぐれたりしたら……!」

 セレナが思い切り声を張り上げ呼び止める。しかし奇しくも、彼女の不安は僅かな時間で現実のものとなってしまう。

 濃い霧の中に薄っすらと見え隠れしていたガイルの影は、瞬く間に消え失せてしまったのだ。

 

 途方に暮れ立ち尽くすセレナとピィチ。

 ガイルが姿を消した途端に、霧は天からの明かりを通す靄へと変わり、生ぬるい空気も、肌に張り付く嫌な風も去り、変貌する以前の森の姿へと戻っていった。