第三十七話 信じると言うこと

 暖かな橙色の光が、セレナの体を包み込む。

 両手を胸の前で組み、目を瞑る。彼女の唱える呪文は、子守唄の様に優しく切ないメロディを奏でながら、春風の様に空間に広がってゆく。

 殺伐とした空気は一瞬で和らぎ、蛇女も、あのキスケですらも、息を呑みその光景に見入っていた。

 歌が止むと、次いで少女は両手を天へ掲げた。

『お願い——ロックゴーレム!』

 澄んだ声音が響くと同時に、周囲一帯に激しい地鳴りが轟く。

 土壌を、木の葉を掻き分け、大きく地面が隆起する。それは僅かな時間で鈍い音と共に人の形を成していった。

「……ほう」

 キスケは、呆然としている蛇女の後方で、腕を組み低く呻った。加勢をするつもりは更々無いらしい。

 お手並み拝見、まさにそう言った様子である。

『フン……小娘如きガ小賢しい真似ヲ……!!』

 不快感を剥き出しにした恐ろしい形相で、ギリギリと歯軋りをする蛇女。ロックゴーレムの出現によって、これまでとは段違いの禍々しいオーラを纏い始めた妖魔を、セレナは真っ直ぐに見据えた。

 彼女は自身の僅かな変化に気付いていた。

 今まで、聖獣の召喚中は祈り続けなければいけなかった。祈りが止まる、それはすなわち召喚獣の消滅を意味していたからだ。

 しかし今は、こうして戦場を見守る事が出来ている。

 

 きっと、魔力が有り余っているからだ。

 今の私なら、目の前の魔獣を倒す事が出来るはず。

 

『醜い岩男メ!砕け散りナ!!』

 叫ぶや否や、蛇女はセレナの数倍は有するであろう巨大な胴体を自在に操り、強力な刺突を繰り出す。

 ロックゴーレムは、その槍の如く鋭い尾先を両腕でもって容易く制する。

『調子ニ乗るんじゃナイよ!!』

 続けざまに紫色の毒液を勢いよく噴射する蛇女。ゴーレムは即座に体制を変え、足元の地盤を引き剝がして盾を作り出し、その攻撃を防ぐことに成功した。

 間髪入れずに、再び毒液の雨がロックゴーレムへと降り注ぐ。盾は先の毒を受けて溶け落ち、二度同じ技を防ぐのは不可能であった。

 ゴーレムは背後に居る召喚主、セレナを抱きかかえると、体を丸めて横転して辛うじて猛攻を回避する。

「有難う……」

 大地の温もりを感じられる大きな腕の中で、セレナは安堵の表情を浮かべた。

 蛇女の周囲はさながら毒の海と化していた。粘着性を持つ紫色のそれは、沸騰した湯の如くぼこぼこと気泡を湧きあげながら、徐々に徐々に広範囲へ広がってゆく。故に、接近戦は困難になっていた。

 しかしやつは、僅かな間に一気に魔力を使った為か、中々次の毒液を繰り出せずにいた。狂気の表情を浮かべながら踠いている相手を前に、ゴーレムは立ち上がり体制を立て直す。

 次はこちらの番だ——

 そう言い放つかのように、鋭い眼光が敵を捉えた。

 ゴーレムが蛇女の方へ向け片腕を突き出す。すると人型の腕がぎこちない音を響かせながら、砲身のような形状に様変わりした。

 筒状の腕の先端に、次第に光の粒子が集結してゆく。そして、粒子が満ち溢れた時——光の玉は眩い閃光となって、標的目がけて一直線に発射された。

『ギャアアアアァ!!』

 激しい衝撃音と共に、蛇女の体の一部に巨大な穴が開く。

『アアアぁ、ああアア痛ィ痛イいぃ……おノレ小娘……よクもォ……ッ!!』

 傷口からボトリ、ボトリと、どす黒い体液が流れ出る。長い体を縦横に捻じらせながら、凄まじい形相で身悶える様は、思わず視線を背けたくなるほどの光景であった。

「あ……ご、ゴーレムさん……」

 地獄絵図のような光景を目の当たりにしたセレナから、か細い声が漏れた。

 少女を、小刻みな震えが襲う。

 目の前の相手を倒すこと。それが当初の目的であり果たさねばならぬ試練であると、そう思っていた。

 けれど、もし敵対する者が言葉を交わすことのできる相手……魔獣ではなく人であったら、こうして相手の苦しむ姿を見ていられるのだろうか——

「……」

 後方で静観していたキスケは、セレナの心情の変化を見抜いていた。主である少女の心情の変化と共に、ロックゴーレムの動きが鈍りだしたことも。

 彼は小さく溜息を吐くと、右手に填められた鉄爪てっそうのベルトを締め直した。

『フフフ……アは、あーーははハハはハ!!』

 少女の変化に気付いていたのは、キスケだけではなかった。蛇女は苦痛に面を歪めながら、二の足を踏む相手を前に、耳を劈く程の高笑いを響かせた。

『イひひ……なアんだ。所詮ハただのガキ。大シタこと無いじゃナいか……今ノおマエの攻撃だって、せいぜい一度シか使えナイんだろう?さあ、そろソロお遊びはおシまいだよ。わたシゃねェ、腹ガ減って仕方ガ無いんだ。その美シい顔ヲ、絹のヨうな肌ヲ……噛み砕イて引き裂イて美味シくイただいてアゲル!!』

 紅唇から溢れ出る悍ましい声音が一帯に木霊する。

 このままじゃいけない——

 セレナは我に返り顔を上げた。しかし、気付いた頃には時既に遅し。彼女とゴーレムの周囲は毒の海で満たされ、一切の動きを封じられていたのだ。

 気泡から発生する蒸気によって、セレナの意識が次第に朦朧としてゆく。

 立っているのもままならない程の強烈な吐き気と息苦しさに、蒼白のセレナはその場に力無くへたり込んだ。そしてロックゴーレムもまた、足元から少しずつ崩れはじめ、煌く流砂を残して姿を消してしまった。

(また召喚しないと……そうだ、フェニックスならきっと……)

 先程同様、既に感覚の伝わらない両方の手を、徐に胸の前で組む。

 だが、それをやすやすと見届けてくれる程、相手は優しくはなかった。

『大人シく食われナ小娘ェ!!』

 頭上から蛇女の毒牙が迫りくる——恐ろしい速さで——

 同時にセレナは、その行方を見届ける間も無く、どさりと地表に崩れ落ちた——

 

 

 

「いたっ」

 夕食後の大量の食器を洗いながら、相変わらず炊事場で一人仕事をこなしていたマリンは、小さく声を上げた。ふとした瞬間に割れてしまった小皿を片付けている最中、不注意で指を切ってしまったのだ。

 らしからぬミスに、思わず深く長い溜息を吐く。

 日頃の疲労が溜まっていた所為も有るのかもしれない。そう、自分に言い聞かせると、再び汚れた皿で溢れかえる流し台を前にした。

「おいマリン」

 ふいに名を呼ばれ、マリンは炊事場の出入り口に目を向けた。

「あらガイル、お疲れ様!今日も倉庫整理させられてたの?あのお婆さんが何を企んでるか知らないけど、あんたも毎日"あんなの"に絡まれてたんじゃ大変ねぇ」

「ああ、お前もな……」

「そう言えば、ピィチは見つかった?」

「いや……」

 生返事のガイルを知らぬ顔で、彼女は洗い終えた食器を棚に戻しながら問う。

「そう、どこ行っちゃったのかしらねえ、あの子。唐揚げにでもされてなければ良いけど」

「なあマリン、お前はさ……」

 再びガイルに名を呼ばれ、マリンは拭き途中の皿をそのままに振り返った。

「お前はセレナのことが心配じゃねえのかよ?」

「また同じ質問?」

 俯きがちに問うガイルに、やれやれといった様子で彼女は続けた。

「だから言ったじゃない。あの子の無事を信じてるんでしょ?だったらそんな暗い顔しないでよ。あたしは信じてるわ。だからこうして気丈でいられるの」

「違う、その話じゃねえよ」

「は?」

 マリンは、遮るように返されて、美しい顔を思い切り顰めた。

 得も言われぬ静寂が炊事場に、二人の間に漂う。その沈黙を先に破ったのは、なぜか突然もじもじとし始めたガイルの方だった。

「……セレナとチヨマルだよ。もしあの婆さんが本気だとしたら、セレナは帰ってきたらアイツと結婚させられちまうかも知れないんだろ?いや、俺は妹みたいなセレナがそれで幸せなら構わねえんだけどさ!なんつーか、ほら、旅に影響しないか心配で……。…………」

「……」

 マリンは目を瞑って短く一息吐くと、足早にガイルの方へ歩み寄る。そして、すかさず彼の頬に手加減なしの平手打ちをかました。

 思いがけない衝撃によって派手に体制を崩したガイルは、側にあった木棚にもたれ掛かる。目を白黒させる彼の頭上には、一気に大量の疑問符が浮かんだ。

「呆れた!あんたってば、そんなことで悩んでたの!?出会ったばかりの何処の誰かも知らないような男との結婚を、本当にあの子が受け入れると思ってるの?あたしはそうは思わない。結婚ってのはね、女の子にとって憧れでもあり最大の決断の時でもある、とても大事なものなの。いくらイケメンでもお金持ちでも、大して好きでもない相手との政略結婚だなんて、あたしだったらゴメンだわ!セレナの幸せを決めるのはあたし達じゃない。でもね、あんたも男だったらいつまでもウジウジしてちゃダメ。あんたに足りないのは心の強さよ。もっと自分の気持ちに素直になりなさい!」

 マリンは、散々思いの丈をぶちまけると、くるりと背を向け長廊下を去って行く。

 一人残されたガイルは、なぜか結婚観について熱く語られ呆然と立ち竦んでいた。赤く腫れた頬を擦り、ふと砂漠での出来事を思い出す。先の彼女の行為は、彼女なりの鼓舞なのかもしれない——

 そう考えたら、なんだかスっと気持ちが晴れてゆく気がした。

 長廊下に備えられた格子窓から僅かに空が見える。雲の無い、セイル=フィード自慢の美しい夜空だ。

「心の強さ、か……」

 ガイルは微かに口元を緩ませると、独り言の様に小さく呟いた。

 

 

 

「目が覚めたか」

「——!」

 ふいに声を掛けられ、セレナはっと視線を上げた。

 しかし、勢いよく体を起こした瞬間、目の前が真っ白になる程の目眩と頭痛に襲われて、再び力なく伏せってしまった。

「ふん……ミツルギがいなかったら貴様は死んでいた。こいつに感謝しろ」

 赤々と燃え盛る焚火を前に、隣に腰を下ろしていたキスケは、投げつける様に鋭い口調で彼女を咎めた。その言葉を聞いて、蛇女の毒牙に倒れる寸前、視界を高速で通過していった影の存在を、セレナはようやく思い出す。

 キスケの相棒である鷹のミツルギは、彼女の側に近寄ると、銜えていた木の実を置いて戻って行く。言葉こそわからないものの、それが彼の慰めの行為なのだと受け取ったセレナは、心からの笑みを浮かべた。

「有難う。キスケさん、ミツルギさん……」

 

 セレナが目覚めた場所は、岩壁が剝き出しになった浅い横穴の中であった。

 外は既に闇。相変わらず、折り重なる無数の枝木によって空からの光は一切届かない、まさに漆黒の空間である。時折、鳥でもなく動物でもない、唸り声にも似た"音"が、森全体にこだまする。その音が聴こえる度に、セレナは思わず身を縮こまらせた。

 キスケは至って平然とした様子で、焚火に小枝を放り込んでいる。先の戦闘のこともあってか、重苦しい空気がほら穴内を支配していた。

 セレナは彼に聞きたい事が山ほどあった。修業の意味、蛇女のその後、キスケ自身のこと——けれど、結局場の空気に呑まれてしまって、中々声を掛けられずにいた。

 そんな折、意外にも彼女が声を掛けるより先に、キスケの方が口を開いた。

「気落ちする必要はない。貴様が弱かった、それだけのことだ」

「…………」

 端的に痛い部分を突かれて、セレナは更に落ち込んだ。

 彼女の心情を知ってか知らでか、キスケは袋から取り出した餌をミツルギに与えながら、淡々と続ける。

「奴とは昔一戦交えたことがある。厄介な相手だった」

「キスケさんでも、厄介だと感じる魔獣がいるんですね……」

「なぜそう思う」

「あ、ええと……」

 流れの中でふいに問われたセレナの脳裏に、今朝方の出来事がふと甦る。無駄のない鍛え抜かれた肢体、そして、それ以上に記憶に残ったのは、体の至る箇所に刻まれた無数の傷跡であった。

「あれを見たのか」

「の、覗くつもりは無かったんです……」

「とんだ変態女だな」

 セレナの頭頂部に、辛辣な言葉がグサリと突き刺さる。見ようと思って見た訳じゃないのに……

 がっくりと肩を落とすセレナへ向け、今度はキスケが声を落として問う。

 それは、地の底から湧き出る様な、魔獣ですらも恐れ戦く様な、殺気に満ちた低音であった。

「……まさか、この目を見てはいないだろうな?」

「えっ——」

 徐に顔を上げた少女の瞳には、彼の右目を覆う黒の眼帯が映り込んだ。