第三十五話 十三夜

 一体何時が過ぎただろうか。

 

 階下から吹き上がる突風に足を取られ、幾度もよろりと体勢を崩しそうになるほどに、少女は体力の限界を感じていた。その冷たく震えを誘う風は、先程まで居た地上からの距離を言わずもがな物語っていた。

 長い間補修が施されていないと思われる、ひび割れと苔だらけの石造りの階段。両端には高い木々が生い茂り、目を凝らしても、薄っすらと霧の掛かった深い森の先を窺い知ることは不可能であった。

 万が一足を踏み外して転んだりでもしたら、確実に命は無いだろう。白の衣を身に纏ったセレナは、不安を募らせながらも階上へ向けて黙々と歩を進めた。

 目的も、為すべきことも明確ではない。なぜならおキクもチヨマルですらも、彼女に花嫁修業とやらの全貌を明かしてはいなかったからだ。ただこの森へ──"コダマの森"へ向かえとの指示を受け、意味も分からずにひたすら長い長い階段を上っている。けれど今のセレナにとって、おキク達の真意など正直どうでも良かった。

 全ては、離ればなれになった仲間達と再会する為に。ただそのためだけに……

 

 霧が濃くなる。ひょっとして雲の上にまで来てしまったのではないかと、そんな錯覚さえ起こさせるような白の世界が、延々と目前に広がっている。

 尚も続く階段。自身の不規則な気息のみが静寂の空間に溶けてゆく。しかし、長年森の中で暮らしていた彼女は、微かな変化を見逃さなかった。

 今までとは明らかに、葉の擦れる音が変わった。

 痛む足を引き摺りながら、霧の阻むその先へと駆け上がる。僅かな希望をエメラルドの瞳に宿して──

 

「ぁ……」

 

 言葉にならない言音が、からからに乾いた喉の奥から漏れた。

 急激な疲労感と湧き上がる安堵によって、足が小刻みに震えているのが分かる。本当に、一体何時が過ぎただろうか……

 彼女が辿り着いたその場所は、周囲を木々に囲まれた、仄暗くも厳かな空気の漂う森閑な空間であった。

 じわりと滲む瞳に何よりも最初に飛び込んできたものは、扉の無い朱色の巨大な門であり、それを潜って少し進んだ所に、神樹リースをも彷彿とさせる大木が根を下ろしている。太い幹には一本の縄が頑丈に巻かれており、根元には、祭壇にも似た古びた木製の建物が備えられていた。

「……」

 セレナは当然の如く、それらの名前を一切知りはしない。けれど、それらが持つ意味は何となしに理解ができていた。

 この場所に居ると、不思議と足の痛みや疲労感が体の内から抜けていく。古の神に守られた、とても神聖な場所。リースの森とは似て非なる、懐かしい感覚。

「(何だろう……安心したからかな?急に眠くなってきちゃった)」

 疲れと共に、全身の力がどんどん抜けてゆく。まるで生気を吸い取られているかのように……

 気のせいなどではない。セレナがそう感じた時には既に遅かった。彼女は立っているのもままならぬ程の脱力感に襲われ、朧げに映る目前の光景を最後に残して、その場に倒れ込んでしまった。

 

 

 程なくして──石畳に横たう少女の元へ、一つの影が歩み寄って来た。

 影の主は、獣の如く鋭い眼光をもって彼女を一睨すると、続けざまに落胆にも似た深い溜息を吐く。

 肩の上から渋る主へ行動を促したのは、翼に手当を施されたしなやかな鷹である。それに対して気の進まない様子をあからさまに表しながらも、影──男は渋々少女を抱き上げると少しの間の後、訝しげに低音で呟いた。

 

「……こんな小娘に一体何ができる……」

 

 

 

「何なのよあいつら。ほんと気味の悪い連中だわ!」

 時は僅かに遡り。

 セレナと再び別れることとなってしまったガイルとマリン、そしてピィチ。彼らはこの地の領主であるおキクの好意(とは受け取り難いが)により、町への散策を許可されていた。

 シノビの里は、子供達にとって始めて見る物ばかりであった。控えめな色調の木材を使った建造物が町の中央を流れる小川の両端に並び、屋敷の雰囲気とは打って変わって、威勢の良い人々が慌ただしく行き交い活気に満ちている。皆、揃ってこの地方特有のゆったりとした衣装を身に纏い、頭頂部で結われた黒髪は独特の形状を成していた。諸所に配置された植物ですらも、セイル=フィードの南側には生息していない種であった。

 マリンは、つい先ほど店先で購入した三色の団子とやらを頬張りながら、川べりに備えられた長椅子の上で不服そうな表情を浮かべた。

「お前、よくこんな状況で物が食えるな」

 隣に座るガイルは、半ば呆れがちに彼女を見やった。ピィチに至っては、セレナと離れてから殆ど口を開かず、塞ぎ込んでしまっている様子である。

「何言ってんのよ。こんな時だからこそ気をしっかり持たないとダメなの!あんたはいつも深く考えすぎよ。あの子が酷い目に遭ったって訳じゃないでしょう?」

「……まあ、確かにそうかもな」

 マリンにまで図星を突かれるとは思ってもいなかったガイルは、それ以上の言葉をのんだ。

「勿論あたしだって心配してるのよ。でも、セレナは必ずこの里の何処かに居るわ。信じているのなら、そんな顔をするのは間違ってる。ピィチ、あんたもね」

「必ずどこかに……うん、そうだわ」

 マリンの励ましを受けて、ガイルの肩の上で沈んでいたピィチの豆粒の様な瞳に、一瞬輝きが戻る。

「さ、こんな所でぼーっとしてないで、次の一手を考えましょ。腹が減っては戦は出来ぬ!あんた達もぼんやりしてないで腹ごしらえしておきなさい!あっ、おばちゃん、お茶とお団子追加で~」

 そう言い残して去ってゆくマリンの背を、呆気にとられながら目で追うガイルとピィチ。呆然としている少年を他所に、ピィチは先の言葉を思い返していた。

 

(ねえ、セレナ……近くに居るのなら、無事でいるのなら、アタシの声に応えてよ……)

 

 風が、背の高い枝垂れの葉を揺らす。

 彼女の祈りは、優しく流れる風と共にふわりと空へ舞い上がっていった。

 

 

 

 ──懐かしい声音が少女の名を呼ぶ。

 小鳥のさえずりが心地良い、光あふれる世界。差し伸べられた大きな手。少女はそれに触れてみたくて、無我夢中で駆け出した。

 けれど次の瞬間、光の世界は暗転し、漆黒の闇が全てを覆う。懐かしい声の主が、どんどん遠ざかる。

 世界が壊れる。崩れ落ちる。少女一人を残したまま──

 

「いやあああーーッ!!」

 纏わりつく漆黒を振り払うかのようにして、セレナは勢いよく体を起こした。

 初めて見る悪夢。べっとりとした脂汗が全身を伝い、激しい動悸によって息をするのも困難なほどに、彼女は取り乱していた。

 なぜならその夢は、異様に現実味を帯びていたからだ。

「目を覚ましたか」

「……!?」

 不意に声を掛けられ、我に返り視線を上げる。

 落ち着いた男性の声。しかし、夢の中の声音ではない。彼は床に設けられた暖炉と思しき一角の向かい側に座り、火の粉が上がる真ん中辺りを長い棒でつつきながら、以降口を閉ざしてしまった。

 セレナは、簡素な麻布の上で眠りについていた。稀に立ち上る炎のおかげで、目を凝らせば周囲の状況がようやく分かる程度ではあるが、今いる場所がそう広くはない木製の小屋であることは間違いないだろう。

 何時眠っていたかは定かではない。しかし、既に夜の帳は下り切って、辺りは夜闇に包まれている。

「あの……助けていただいて、有難うございます。あなたは……」

 セレナの問いが空気に溶けると同時に、男の手がぴたりと止まった。

「…………俺は貴様が王の娘だと聞いた」

 それまで一切目を合わせようとしなかった男の鋭い眼光が、向かいに座る少女を捕らえる。まるで飢えた野獣に睨まれた仔うさぎの如く、セレナは瞬時に肩を窄めた。彼の赤褐色の瞳の奥に、ガイルの義兄である赤眼の魔族、ロア似た殺気を覚えたからである。

「人に名を訊ねる前に先ず名乗るのが礼儀だろう。王の娘はそんな事も知らんのか」

「ご、ごめんなさい……」

 思いもよらぬ返答に、セレナは頭を垂れて俯いた。

「私はセレナ……セレナ・シルフィーンです。今年で14歳になります……」

「年など訊いとらんぞ」

「あっ……」

 余計なことを口走ってしまった。

 なぜか湧き上がる羞恥心と重い空気に耐えかね、再び俯き口を噤んでしまったセレナだったが、突如頭のてっぺんから"何か"を被せられて、思わず小さな声を上げた。

「キスケだ。別に覚えんでも構わん」

 それは薄手の布切れであった。とても綺麗とは言い難いが、体力を消耗し、この地の寒さに不慣れな少女にとっては、何よりも嬉しい品であった。

「俺は貴様の御守りは御免だ。この"コダマの森"に居る間は、自分の身は自力で守れ。明日にはここを出る。そのつもりでいろ」

 キスケは端的にそう言い放つと、戸惑う彼女に背を向け横になってしまった。

「あの、キスケさん、これは……」

 タオルケット代わりの布切れは、たった一つしか無いらしい。

 それ以上の問い掛けが無意味だと判断したセレナは、青年のささやかな好意を受け取って、明日に向け再び眠りにつくことにした。不安と恐怖に押し潰されそうになっていた心が、彼との出会いによって僅かに和らいだのは事実だった──

 

 

 

 その夜。

 広々とした炊事場に、マリンの甲高い叫声が響き渡った。

 セレナの"花嫁修業"が終わるまで屋敷に身を置く子供達には、おキクの命によって、それぞれに仕事が任されていた。

 ガイルは倉庫の整理、そしてマリンは配下達の食事作りである。

 料理が趣味なこともあり余裕を見せていた彼女だったが、もともと専属の賄方が居ないらしく、黒服の男達のあまりの手際の悪さに愕然とした。

「もう!あんた達ってホント顔だけなのね!良いわ、あたしが全部一人でやる」

 おキクの趣味で集められた二枚目集団は、彼女の気迫に圧倒されてそそくさと炊事場を後にした。

「これじゃあ、あたしの方が花嫁修業してるみたいじゃない……」

 慣れた手つきで芋の皮を剝きながらブツブツと嘆く彼女だが、男達からの評判は上々であった。

 今までにない程の慌ただしい配膳を終え一息ついたマリンは、傷だらけで仕事から戻って来たガイルと外廊下で再会し、思わずぎょっとした。訊けば、倉庫に張り巡らされていた罠に掛かって命の危機にさらされたらしい。

「セレナ……早く帰って来ないかしら……」

 ガイルとマリンは大きく溜息を吐いて壁にもたれると、揃って夜空を仰いだ。

 

 そんな最中、ピィチは彼らとは別の場所に居た。そこはおキク目の届く場所であり、彼女は今朝がた同様、術の施された鳥籠の中に閉じ込められ眠りについていた。

 おキクは、ピィチがセレナの居場所に感付き始めていることを、心眼でもって見抜いていたのだ。

「おまえにまで妙な気を起こされたら、堪ったもんじゃないからね」

 茶を啜る音だけが広い室内に響く。

 おキクは障子戸の隙間から夜の空を見やった。雲間から月が見え隠れしている。今宵は十三夜──僅かに欠けてはいるものの、美しい白銀の月である。

「ふん……奴め、自ら火中へ飛び込もうとは……惜しいのう……」

 乱れた心を掻き消すかのように、再び茶を啜る音が響く。

 彼女のどこか寂し気な呟きは、誰の耳にも届くことなく静寂の中へ消えていった。