第三十四話 すれ違う絆

 朝になって。

 ガイルとマリン、そしてピィチの三名は、自らの置かれている状況を呑み込むのに必死であった。

 

 東の空に日が昇ると同時に、行き成り部屋に現れた黒服の男によって無理やり叩き起こされたかと思えば、湯あみを急かされ、衣服もこの都の街着のようなものに着替えさせられ、その勢いのままで、先の個室とは比べ物にならないほどの広い一室へと連れて来られて、今に至るのである。

 言葉もなく、開け放たれた戸の近くで、ただただ呆然と立ち尽くす子供達。

 驚くのも無理はない。彼らの真正面には昨晩の老婆が、そして彼女の手前に並ぶように着座するチヨマルとセレナが、静かにこちらへ視線を向けていたのだから。

「遅い。わしが待ちくたびれてぽっくり逝ったらおぬしらのせいじゃからの」

「…………」

 こんなにもすんなりと、老婆に——そしてセレナに再会出来ると思ってもいなかった子供達は、目の前に座っている三人の顔を、目を白黒させながら交互に見やった。

 ふと、セレナと目が合ったガイル。彼女の表情は安堵に満ちていた。

(セレナ——……)

「ほれ、さっさと近う寄らんかい。日が暮れてしまうわい」

 老婆が、再会の余韻に浸る余裕すら与える隙もなく、急かすように言い放つ。

 鮮やかな衣服を身に纏った、美しきエルフの少女に見惚れていたガイルは、マリンに促されて我に返りようやく歩を進めた。

 

 

「おぬしらを呼んだのは他でもない。突然じゃが、この娘との縁を綺麗さっぱり絶ち切ってほしいのじゃ」

「は??」

 しばらく続いた奇妙な静けさの後、目の前に腰を下ろしている子供達へ向けて、おキクは茶をすすりながら呟くように投げ掛けた。

 無論、突拍子もない老婆の発言に、セレナを除いた三名は眉を顰めて声を揃える。

「わしも鬼じゃあない。セレナが花嫁修業をしておる間、おぬしらにはこの屋敷の一室を貸してやろうと思うとる。最後の別れくらいはさせてやりたいからのう。それと、都へ出る許可を与えてやるぞい。好きなだけ旅支度でもするが良かろう」

「ちょ、ちょっと待て!勝手に話進めてるんじゃねーよ婆さん!!っつーか、花嫁修業ってなんだよ!?」

 狼狽しながら真っ先に身を乗り出したのはガイルであった。マリンとピィチも、話の意味が理解できずに顔を歪めながら首を傾げていた。

「この娘はここに居るチヨマルと祝言を挙げる予定じゃからのお」

「うそぉ!?」

 カカカと高笑いをするおキクに、今度はマリンが目を剥いて叫ぶ。

「セレナ、あんたはそれで良いの!?やりたい事があるから、あたし達と旅をしてるんじゃないの?」

「ねえ、冗談よね?冗談っていってよセレナ……」

「私……私はみんなと……」

 マリンに問い詰められ、ピィチに痛々しい眼差しを向けられたセレナは、思わず視線を逸らして口籠ってしまった。なぜ仲間達の目を見る事が出来ないのか、なぜその問いに答える事が出来ないのか、彼女自身も上手く言い表せないのである。

 そんなセレナを見詰めながら言葉を失うガイル。しかし子供達は、この降って湧いたような話には必ず何か裏が有って、彼女はこの老婆の企みに捕らわれ操られているのだと、心の内ではそう感じ取っていた。

「馴合いはそこまでじゃ。父親の思いを棒に振る気かえ」

「っ……!」

 セレナの言葉を途中で遮るように、おキクが声を張り上げた。

「ほれ、この娘も同意の上じゃろうて。面倒で意味のない旅を続けるよりも、ここで静かに暮らしている方が良いんだとよ」

「おい婆さん、どういう意味だよ——」

「さあ、そうと決まったらさっさと部屋から出ておゆき。支度の邪魔じゃ。お前たち!この小童共を外に連れて行きな」

 ガイルの問いには聞く耳も持たずに、再び声を張るおキク。すると、いつの間にか子供達の背後に陣取っていた黒装束の男達がガイルとマリンの腕を掴み、ピィチを鳥籠の中に追いやって、外廊下まで引きずりだそうとした。

「や、やめろ!放しやがれ!!俺達はこれ以上セレナを一人にさせない……絶対に取り戻すって決めたんだ!セレナッ!!」

 がむしゃらに抗う体を男達に羽交い絞めにされながら、ガイルが必死に叫ぶ。しかし悲しいかな、締め上げられた腕は一寸たりとも緩むことはない。

 目を伏せていたセレナは、彼の言葉が届くと同時に、エメラルドの瞳を大きく見開いて顔を上げた。

「あの時言ってくれたよな?一人で背負い過ぎるなって……お前が一人で背負いこんでるその悩みを、いつか打ち明けてくれるって俺達は信じてるから。どんな理由があっても、必ず俺達のもとに帰ってきてくれるって信じてる……その時は必ず迎えに行くから!そうしたら、また皆で旅の続きをしような?みんなで——何があっても——」

「ガイル……みんな……」

 仲間達の声がどんどん遠ざかってゆく。どんどんと——

 

 そして、僅かな間に、室内は再び平穏とした静けさに包まれた。

 溢れ来る感情を抑え切れずに、思わず立ち上がったセレナ。仲間達の姿を追おうと思い立ってはみたものの、やはり、それ以上彼女の足が進むことはなかった。

 

「……おキク殿」

 

 再びゆっくりと腰を下ろしたセレナの隣で、それまで沈黙を守っていたチヨマルが静かに開口した。

「拙者からも一言宜しいでしょうか」

「なんじゃいチヨマル」

 眉間に皺を寄せながら、鋭い視線を向けるおキク。

 チヨマルは、浴びせられる殺気に屈する素振りも見せずに、淡々と言葉を紡いだ。

「貴女様ご考慮は幸甚の至りでござりまする。拙者のような余所者・・・の橋渡しを誇り高き里の頭領殿に挙行して頂けるなど、この上なき幸せ。しかし聞くところによれば、セレナ殿のお父上は『里に残るように』とだけ申されたようで。故に、何処の馬の骨かも存じぬやからとの婚約など如何なものかと——そう感じた次第であり、無礼を承知で申し上げた所存でござります」

「やはりあの話を聞いておったか」

 チヨマルの言葉を受けて、おキクは溜息を吐きながら目を瞑る。二人のやり取りに疑問符を浮かべるセレナの隣で、チヨマルは更に続けた。

「七年、貴女様の下人とし側に仕えさせて頂いて、その間貴女様はとても良くして下さった。しかし今回の件は、たとえ心からお慕いする御方の命であっても、拙者にはとてもではありませぬが荷が重すぎまする。拙者は──貴女様を裏切りとうございませぬ……」

「ふむ……チヨマル、主も変わったのう」

 静寂の中に、おキクの茶を啜る音だけが響いた。

 身を縮めながら静かに会話に耳を傾けていたセレナ。二人の扱う言語は彼女にとって理解し難いものだったが、声色や表情に浮かび上がる思いや感情、溢れる信頼関係は、二人をよく知らないセレナにも自然と伝わってくる程であった。

 だが、僅かに流れた穏やかな時間は、ふいに視線を上げたおキクの言葉によって、すぐさま殺伐としたものとなった。

「このわしに盾突こうなど言語道断じゃ、チヨマル。ぬしの力を捨ておくほどわしは馬鹿ではない。何の為に今まで育ててきてやったと思うとる。今日の為じゃ。裏切りとう無ければ口答えなんぞするでない!……わしはもう、後先長くないんじゃよ」

「おキク殿……」

 思い切り心情を吐露した後、背を丸め顔を背けてしまったおキク。チヨマルは彼女の動作を目で追うと、その小さな背中に声を掛けることも出来ずに、唇を噛んで静かに言葉を呑んだ。

 再び沈黙だけが広い室内を支配する。湯呑が空になる度に自ら茶を注いで、徐に口元へと運ぶおキク。そして、膝の上で強く拳を握り、口を噤んでしまったチヨマル。

 そんなピリピリとした空気を断ち切ったのは、他でもない。二人の間に腰を下ろしていたセレナであった。

 

「あ、あの……おキクさん。私、やります……」

 

「何——?」

 ふいに流れる澄んだ声音。

 おキクとチヨマルは揃って瞠目しながら、セレナの方を見やった。

「今、なんと……」

「その……花嫁修業というものをやらせてもらいたいんです。だからこれ以上、悲しい言い争いはしないで下さい」

 真っ直ぐにおキクを見据える大きな瞳。その眼差しは僅かな憂いを含みながらも、決意に満ちていた輝きを宿している。

「……ふん、やはり王の子とて一人の小娘。どういった心変わりかは知らぬが、情などに流されおって……じゃがな、わしはその言葉を待っておった。ようやっと、申してくれたのう」

「セレナ殿……それで宜しいのですか?」

 満足そうな笑みを浮かべるおキクとは対照的に、訝し気に眉を顰めるチヨマルに問われ、少女はふわりと微笑んで小さく頷いた。

「さ、そうと決まれば話は早いわ。もたもたせんと、部屋に戻ってさっさと着替えておいで。そんな恰好じゃあ何もできやしないからね」

 言うなりおキクは黒服の配下を呼び寄せる。

 セレナは、促されるがままに立ち上がり、ただ静かに男と共に広間を出ていった。

 

 去ってゆく彼女の背を呆然と見届けていたチヨマル。残された二人の間に流れた僅かな沈黙を、茶を啜る音が打ち消した。

「——セレナには、例の場所へ……"コダマの森"へ向かってもらうよ」

「な、何ですと!?」

 おキクの言葉を受けて、チヨマルの顔色が急変した。

「甚だ正気の沙汰とは思えませぬ……たとえ魔力の高い種族の娘であろうと、彼女はあの場所の恐ろしさを微塵も知らぬ幼子でありますぞ!里の連中でさえ近付かぬ処だというのに……」

「そうじゃのう、ならばお前は森の入り口まで案内でもしてやるがいい」

「おキク殿!!拙者はそのような意味で申し上げたのではござらぬ!」

 身を乗り出して迫るチヨマルに、顔色一つ変えずに応じるおキク。

 相変わらず茶を啜りながら視線を合わせようとしない彼女に、失意のチヨマルはとうとう頭を垂れて呟く。

「貴女様こそ変わられた。己の願望の為ならば、他人の犠牲など厭わぬのでありましょうか?あの娘が死んでしまっては、元も子もないのですぞ」

「何を早とちりしとるんじゃチヨマル。セレナが死ぬじゃと?それこそ有り得んわ。先導をキスケに頼んでおるからの」 

 その名を耳にした瞬間、一筋の汗がチヨマルの頬を伝った。

「キスケ……殿……ご存命であられたのですか」

 おキクは、ふいに不自然に視線を落とした彼の、明らかな様子の変化を横目で窺いながら、素知らぬ振りで言葉を連ねた。

「おぬしにはまだ言うてなかったかのう。キスケならばコダマの森で半生を過ごしておる。この里の誰よりもあの場所を熟知しておる筈じゃ。まあ、シノビですら恐れ慄く未知の領域を彷徨うことよりも、やつと二人きりという方が、セレナにとって地獄のような時間かも知れぬがな。しかし、あの男の魔力と能力は折り紙付きじゃ。期待は裏切らんじゃろうて。何せこのおキクの玄孫であり"唯一の血族"じゃからの」

「左様——ですか……」

 チヨマルの呟きは、空気と同化し溶けてゆく。

 再び訪れた沈黙の中で、やはりおキクの茶を啜る音だけが室内に響いていた。

 

 

 

「有難うございます。チヨマルさん」

 チヨマル、そして汚れ一つない白衣はくえを身に纏い、身の丈程の錫杖を手にしたセレナは、屋敷の裏手から続く砂利の敷かれた細道を抜けて、とある藪の前に来ていた。

 この場所は、高い白塗りの塀よって都とは完全に隔離されているようで、チヨマルの話によると、外部の者が簡単には侵入できない造りになっているそうだ。

 足を止めた藪の手前には、年季を感じさせる小さな石碑が置かれている。

 セレナには、その石碑に彫られている文字こそ読み取ることは出来なかったが、この“緑の壁”の向こう側に、これから向かうべき場所が存在するのだろうと、そう確信を抱いていた。

「おキク殿から話は聞いておられるかと存じますが、拙者は里のしきたりにより修業には同伴できませぬ故、どうか大きな怪我などなさりませぬよう」

「大丈夫です。森は慣れていますから。チヨマルさんは本当に優しいんですね。あなたみたいな人が旅の仲間だったら心強いんだろうなって……そんな事を思ってしまいました。運命って、なかなか上手くいかないものですね」

「セレナ殿……」

 顔を上げたチヨマルの瞳には、儚げな笑みを浮かべる少女が映った。

「私が無事に還ったら、一番にガイルとマリンちゃん、ピィチちゃんに連絡をしてください。そのとき──皆に、私の決意を伝えようと思っています」

「……御意のままに」

 セレナの伝言を受け取り、石碑の傍まで歩み寄るチヨマル。彼は徐に瞼を閉じると、胸の辺りで両手を組んで人差し指だけをぴんと立たせた。

 するとその直後、不思議なことに、目の前の藪が葉の擦れる音と共に盛大に動き出し、呪文に共鳴して開く扉のように、二人の行く手を阻んでいた緑の壁は、僅かな間に先へと繋がる空間へと姿を変えた。

 そして、封印により閉ざされていた藪の向こう側には、石造りの階段が続いていた。見上げると、遥か先は視界を遮る雲に覆われており、実際の長さを窺い知ることはできないが、天に向け真っ直ぐに伸びる、長い長い階段であった。

 

「いってきます!」

 

 チヨマルに見守られながら、前だけを見据え一歩一歩足を進めるセレナ。

 これが終われば、きっとまた仲間達に会える……

 心変わりなどではない。彼女の思いは、単純にその一心であった。だからこそ、澄み切ったエメラルドの瞳に宿る光は、困難の中でも色褪せぬ輝きを放つのだった。

 

 "花嫁修業"の名を借りた、過酷で残酷な試練がこの先に待ち受けているとも知らず——……