第三十三話 ジレンマとの戦い

「とても素晴らしい旋律ですな。セレナ殿の歌は……」

「き、聴いていたんですか」

 霞む雲の切れ間から見え隠れする月を見上げながら、うっとりとした口調で呟くチヨマル。その言葉に、隣に腰掛けていたセレナはほんのり頬を赤らめた。

 二人の目の前に広がる中庭には、今は葉の掠れる音と虫たちの鳴き声が微かに聴こえるのみであり、その静けさと二人きりと言った状況が、セレナにとっては心なしか気不味く感じた。

 

 あの後、おキクに『フィアンセ』の意味を教えられ、長い説明を経て僅かながら意味が理解できたセレナ。

 父、エリオンの希望とはいえ、話の流れから、まだ出会って間もない男性と行き成り結婚を約束されてしまったのだから、無理もないだろう。戸惑い、迷い、得も言われぬ恐ろしさ。そう言った心情が、彼女を歌に駆り立てたのだ。

 仲間達と旅をしてきた中で、不安や恐怖心に追い詰められる瞬間が全く無かった訳でなはい。砂漠での一件も、魔獣と対峙した際にも、リースの森で穏やかに暮らしていた時には感じ得なかった感情は多々あった。

 しかし、これほどまでに心が揺れ動いたのは初めてであり、そんな時は決まって、仲間達——ガイルやマリン、ピィチの姿が脳裏に浮かぶのだった。

 

「セレナ殿」

「は、はいっ」

 

 ふいに名を呼ばれ、慌てて顔を上げたセレナ。そこには真剣な表情を浮かべたチヨマルの横顔があった。

「其方はいかがお考えですか?おキク殿の計らいを」

「え……?」

 その問いに目を丸くする彼女を横目で窺うと、チヨマルは再び遠くを見詰めるように、静かに開口した。

「我らシノビにとって上様の命令は絶対。拒もうものなら里を追われる処遇となるでしょう。しかし、先のおキク殿の発言は、あまりにもセレナ殿への配慮に欠けていると感じざるを得ない。其方は、この里のシノビではないのだから」

「チヨマルさん……」

 セレナは、ふと視線を泳がせ辺りを見回した。薄暗い長廊下はしんと静まり返っており、三脚で支えられた籠の中で、緋色の炎が揺らめいていた。

「安心なされよセレナ殿、ここには我々以外は誰も居ませぬ」

「そ、そうなんですか」

 心の内を読まれたようで、セレナは驚いて肩を縮めた。

 

 そして、何度目かの沈黙が二人を包み込む——

 気不味さにとうとう耐えかねたセレナは、しばらく続いた静寂の後、再び口を閉ざしてしまったチヨマルを覗き見ると、呟くように答えを返した。

「わ……私は……わからないんです」

「わからない?」

 怪訝そうな声色で問うチヨマルに、小さく頷くセレナ。

「幼い頃からずっと森で育ってきたから、その……ケッコンとか、あまりにも突然過ぎて。おキクさんの話を聞いているときに、本当は怖くて凄く逃げ出したかった。けれど、そうしなかった自分がいた。お父さんの思いを無駄にしたくはないから……。それに、今の私は魔法も上手く使いこなせなくて、みんなの——一緒に旅をしている仲間たちの足手まといになってるんじゃないかなって思うと、正直、どうしたら良いのかわからなくて……」

「ふむ」

 二人の間を、北からのひやりとした風が吹き抜けた。そして、少しの間を置いてチヨマルが言葉を繋いだ。

「セレナ殿、なにも気落ちする程ではありませぬ。其方はまだ若い。戸惑いや憂いに苛まれるのは致し方のないこと。しかし、これだけは覚えておいて頂きたい。この場所に身を寄せるという決断が、仲間達の為になるとは限らぬということを」

 思いもよらない彼の言葉に、顔を上げた少女の瞳に微かに光が宿る。

「其方は——自分の心に嘘を付いている。本当は、仲間と共に旅を続けたい。その一心ではありませぬか?」

「そ、それは……その……」

「シノビを侮ってもらっては困りますぞ」

 そう言い残し徐に立ち上がるチヨマル。そんな彼を見上げながら、再び心の内を読まれたセレナは、動揺を隠せずに目を白黒させた。

 チヨマルは微かに口元を綻ばせると、呆然とする彼女へ向け手を差し伸べた。

「今一度、拙者の方からおキク殿に今一度話をつけて参りましょう。政略結婚など、セレナ殿の父上も喜ぶ筈がない。意味のない契りなど——……」

 最後に独り言のようにそう呟いたチヨマル。セレナには、月明りに薄っすらと浮かび上がった彼の端正な顔から、穏やかな微笑みが一瞬だけ消え失せて見えた。

「そろそろ戻りましょう」

「は、はい……」

 難しい言葉の羅列とチヨマルの様子に疑問を抱きながら、セレナが差し伸べられた手に身を委ねようとした、まさにその刹那であった。

 

「曲者くせものオオォーーーー!!!!」

 

 静穏な月夜を裂くようにして凄まじい叫声が響き渡る。それと同時に、複数の黒装束が目にも止まらぬ速さで屋根の上を駆け抜けてゆく。

 広い屋敷内は突如として騒然となり、男達の向かっていったと思われる方向へ目をやると、緋色の灯りが煌々と一帯を照らしているのが見て取れた。

「ほう、蔵の裏手側か……何者か存じぬがあの場所を抜けてくるとは」

「も、もしかして……」

 顎に手を添え小さく呻るチヨマルの隣で、セレナは息を呑んだ。なぜなら彼女には思い当たる節があったから。

「チヨマルさん、行ってみましょう!」

「セレナ殿!?危険ですぞ」

 次の瞬間、セレナはチヨマルの制止を振り切り走り出していた。慣れない着物の長い裾に躓き、何度も何度も転びそうになりながらも、一心不乱に——

 

 

「ちょっとどこ触ってんのバカ!離しなさいよこのヘンタイどもっ!!」

 可憐な声音から吐き捨てられる、信じられないような罵詈雑言。駆け付けたセレナの耳に一番に飛び込んできたのは、シエルの町で聞いた鮮烈なあの台詞であった。

「やっぱり……みんな!」

「セレナ!!」

 松明の灯りだけが周囲を照らす石造りの倉庫の前で、黒装束の集団に囲われ石畳に押さえ付けられていたのは、紛れもなく離れ離れになった仲間達——ガイルとマリン、そして鳥籠の中で飛び回るピィチである。

 駆け寄って来るセレナの姿に気付き、顔を上げ声を揃える子供達。皆、元の服の色がわからなくなるくらいに真っ黒な煤や埃にまみれ、その上、体中に大小無数の傷を負っている。しかし、そんな状況下であっても、ようやく再会を果たしたセレナへ向けて、普段通りの笑顔を返すのだった。

「セレナ、無事か?ごめんな、迎えに来るのが遅れて……」

 拘束され身動きの取れない状態のまま、憂いの表情を浮かべるセレナに安堵の笑みを向けるガイル。セレナは、彼の言葉に目を瞑り深く頷くと、次の瞬間、粛然と姿勢を正して周りの男達を見やった。

 その凛たる姿に、それまでの不安げな少女の面影は微塵もない。

 

「今すぐに開放してください……私の仲間達を」

 

 真っ直ぐに、それでいて吸い込まれそうな程に澱みのない新緑の瞳。そして、心の穢れすらも浄化へと誘う、どこまでも澄み切った言の音。

 黒装束の集団は、松明の温かな灯りの中で静かに佇む神秘的な少女に、否応なしに釘付けとなった。

 輪の中心で指揮を執っていた一人の男が、頭巾から露出した目を大きく見開きながら呟く。

「もしや、この娘は何時かの……」

 

「その辺にしておきなっ!!!!」

 

 粛々とした空気を一気に打ち破ったのは、闇の中から知らぬ間に現れ出た老婆の、耳を劈く一喝であった。

「と、頭領……!」

「チヨマルから聞いてやって来たかと思えば、なんだいこれは。こんな大所帯が、なあに仔鼠如きに手間取っておるんじゃ。まったく、里のシノビも落ちぶれたもんだ」

 おキクは、研ぎ澄まされた刃の如く鋭い視線で、群がる集団を舐めるように見回した後、綺麗に二手に分かれた男達の波の中央を、チヨマルを従えながらゆっくりと足を進めた。

 そして、輪の中ほどまで達するや否や、呆然としている子供達一人一人を、片眉を釣り上げながらじっくりと見やった。

「主ら、小童にしてはやりおるのう。よく地下貯蔵庫の入り口を見つけたもんじゃ。しかし、あの場所には到底生きては帰れぬような、ありとあらゆる罠を巡らせておった筈じゃが」

「はっ、毒矢だの針山の落とし穴だの、大そうな仕掛けをごくろうさん。でもな、俺達はそんなもんじゃ引き下がらないぜ」

 ぼろぼろになりながらも、強気な態度で言い放つガイル。

「まあ、マリンが足を滑らせておっこちそうになったときはかなり大変だったけど、セレナにあとちょっとで会えるって言うのに挫けてなんていられないもの!」

「ぴ、ピィチってばどさくさに紛れてバラさないでよ恥ずかしい!仕方ないでしょ!?この子が妙なことされてないかってほんとに心配で、急がずにはいられなかったんだから……っ」

 ピィチに続いて、マリンが声を張り上げた。

「みんな……」

 セレナの呟きは、月夜の清らかな空気にふわりと溶けてゆく。

 変わらぬ笑顔。変わらぬ声色。心の奥底で待ち望んでいた、かけがえのない存在。

 しかし、危険を冒してまで助けに来てくれた仲間達と、少しでも別の道を歩もうと考えた自分が居た——

 セレナの心は、溢れくる自責の念によって、きつく締め付けられていた。

 

「ふむ、なるほど」

 子供達のやり取りをしばらく眺めていたおキクが、ふいに口を開いた。

「そいつらを放しておやり。どうやらセレナの連れらしいからの。朝まで適当な部屋にぶち込んでおきな」

「おキクさん……!」

「勘違いするんじゃないよセレナ。無論、お主だけは別の部屋じゃ。このわしがそんな馴合いで揺らぐとでも思うたか?チヨマルに案内してもらうとよい」

 そう言い放つと、おキクは背を向けもと来た闇の中へと音もなく去ってゆく。

 その場に残された者達は、計り知れないオーラを放つ小さな背中を、ただただ静かに見送るしかなかった。

 

 

 

 おキクの命令の通り、ガイルとマリン、そしてピィチは、セレナとの感動の再会に浸る余裕すら与えられぬまま、黒装束の男に彼女とは別の部屋へと連れて行かれた。頑丈な縄によって後ろ手に縛られていたため、抵抗しようと必死に足掻いてはみたものの、結局それらは全て無駄に終わった。

 何より、この不気味な男達もそうだが、頭領と呼ばれていた老婆の尋常ではない威圧感。あの口達者なマリンとピィチですら、先のやり取りを思い出すと底知れぬ恐怖に捕らわれ、下を向いて口籠る程であった。

 ほんの僅かな時間で、子供達はこの里の集団の力量を悟ったのである。

 外廊下に面したがらんとした一室に放り込まれた三人。

 

 黒装束の男は、去り際に部屋の隅に置かれたランプに似た照明器具に灯りをともしてゆき、紙製の囲いの中で揺らめく炎だけが、室内をぼんやりと照らしていている。

 子供達は、そんな薄暗い空間で、体を丸めて口を閉ざしていた。

 

 ——しばらくしてから、マリンが沈黙の中で徐に立ち上がった。

 彼女は、格子に紙の貼られた戸の取っ手の部分を、先の男に真似てスライドさせるように思い切り引っ張ってみた。だが、何度挑戦してみても、不思議な魔力が働いているのか、屋敷特有の仕掛けなのか、腕自慢な彼女の力を持ってしても開けることは不可能であった。

「なんなのよもう!はぁ、せっかくセレナに会えたっていうのに、このまま追い返されたりしたら元も子もないじゃないの」

 そう言い放ち、どさりとその場に座り込むマリン。

 そんな彼女を横目に、ガイルが静けさの中で小さく呟いた。

「お前ら、セレナが着てた服を見たか?俺には、あいつがこの場所で酷いことをされたとは思えないんだよな。むしろ歓迎されてるっていうか……チヨマルとか言う男に連れて行かれたときも、セレナは……全然抵抗しなかった。とにかく明日、あの婆さんと話せるようになんとかしてみようぜ」

「え、ええ」

 らしからぬ、覇気のない声色。

 マリンとピィチは、その様子に疑問を抱きつつも彼の提案に同意し、それぞれ床に就いた。

 

 横になり、一人思いにふけるガイル。

 彼は、別れ際にセレナの華奢な肩を優しく抱く男の姿を思い出して、湧き上がる悔しさと、自分の無力感に打ちひしがれていた。

 

(セレナは必ず取り戻す……必ず——……)