三十二話 捕らわれの姫君

「な……なぜ私の……お父さんの名前を知っているの……?」

 

 広々とした室内を静寂が支配し、得も言われぬ異様な空気が立ち込める。

 皺だらけの面おもてをくしゃくしゃにして目を細める老婆を前に、戸惑い、身を縮めるセレナ。彼女とは対照的に、老婆は絶えず穏やかな表情を浮かべている。

 しかし、その小さな身体から粛然と放たれる底知れぬオーラに、セレナは目を逸らすことも身動きを取ることも出来なかった。

「まあ、そう焦りなさんな。この年になると耳が遠くなってしもうてなあ。そんなところで呆けておらんで、ほれ、こっちへ来て婆の話相手になってくれんかの?」

「…………」

 穏便な口調の内に潜む、拒む余裕すら与えぬ威圧感が、たじろぐセレナをゆっくりと前へ押し進める。

 対する老婆はと言うと、色とりどりの花模様が描かれた絢爛な着物にも勝るほどの、美しく整った面立ちのエルフの姿を、小さな瞳を極限まで開眼しながらまじまじと見詰めている。

 痛いくらいの眼差しを送られながら、老婆の手前に敷かれた薄手のクッションに似た座具に腰を下ろすセレナ。彼女は俯きながら一瞬視線を彷徨わせた後に、上目がちに相手の顔を見やった。

「おキクじゃ。怖がらんでええぞ、取って食うたりはせんわい」

 おキクと名乗る琥珀色の衣服を纏った老婆は、カカカと一笑した後、目を丸くするセレナへ向け表情を和ませる。それは、先程までの圧力など微塵も感じさせない、柔らかな笑みであった。

「少々手荒な真似をしてすまんかったのう。しかし、セレナよ……よおく、ここまで来なすった。十年間、おぬしがこの里にやってくる日をずっと待っておったんじゃ。エリオンから言伝を預かっておるでの」

「お父さんがここに……?」

「ああ、そうじゃよ」

 思わぬ朗報を受けて、顔を上げたセレナの目に希望の光が宿る。おキクは、そんな少女へふっと口元を緩ませると、遠くを見つめる様にして語り続けた。

「今でもよう覚えておる。あれは今日と同じ、雲一つない晴天に恵まれた日のことじゃった。一国の王がふいと里にやって来たかと思えば、見張りの下忍共を得物を一切使わんと、その風格と言葉でもって軽く制したんじゃ。国や名誉を捨ててまで、愛する者を救う旅に出る——わしゃあ、聞いて呆れたよ。じゃがのう、それ以上に興味をもった。言うておくが、妙な意味ではないぞ?まあ、ちいと……先に逝ったあの人に似ておったもんでアレじゃったが……ゴッホン!……兎に角、わしはやつの幼子のような真っ直ぐな瞳に免じて、頼みを聞き入れることにしたんじゃよ。おぬしの——『セレナの面倒を見てほしい』っちゅう、頼みをな……」

「わ、私の面倒を……」

 おキクの長い昔話を、興味津津といった様子で聞き入っていたセレナだが、父——エリオンが残した伝言とやらに、微かな疑問を抱き頭を捻った。

 おキクは、押し黙ったまま目を泳がせている少女を後目で窺うと、僅かな間の後、神妙な面持ちで開口した。

「……エリオンはこうも言うておったわい。『危険な旅に娘を巻き込みたくはない。もしあの子がここまでやってきたら、里に身を置くように諭してはくれないか』と」

「え……?」

 セレナの瞳に映る老婆に、おぼろげな父の影が重なった。

 

 遠く、遠く、手を伸ばしても届かない存在。それでも、いつか再び出逢える日を、いつか家族で幸せに暮らせる日を夢見て、ここまでやって来た。

 ところが、追い続けている存在が自身に求めているものは、思い描いていたものとは異なっていた。

「そう……ですか……」

 考えてもみたら、二人が——父と母が生きていると信じているのなら、リースの森に止まっていれば良かったのかもしれない。そうすれば、きっといつか二人は必ず迎えに来てくれる。

 旅を続ける理由なんて、単なる自己満足でしかないのかもしれない。二人が生きているという確証なんかないし、どこまで歩いても見つからないかもしれない。

 それでも、危険な旅を続ける理由は……理由は——

 

 ——今のセレナには、おキクの話を真摯に受け止めることしか出来なかった。

 ぐるぐると渦巻く感情の波に揺られながら、目を伏せ言葉を噤むセレナ。おキクは、そんな心情を知ってか知らでか、再び初めのように目を細めると、俯く彼女の頭を撫でてやった。

「うむ、呑み込みの早いええ娘じゃ。気に入ったわい。これなら安心して彼奴に託せるわ」

「え?」

 そう言うとおキクは、セレナの見詰める前で、大きく二度ほど手を叩く。 

「チヨマル、おるんじゃろう。入って参れ」

「お呼びですか上様」

 ふいに、部屋の隅の薄暗い空間が歪んだかと思えば、突如としてその場所に一人の青年が現れた。突然の出来事に息を呑むセレナを他所に、おキクはチヨマルという名の男へ軽く手招きをし、傍に寄るように促す。

 疑問符を浮かべ呆気に取られている様子の少女の隣に、徐に腰を下ろす糸目の男性。先の案内役の男達と似た衣服を纏っているが、頭部を覆うあの異様な頭巾は被っておらず、烏の濡れ羽を思わせる混じりけのない黒髪が露出しており目を引かれる。この粛々たる場所とは不釣り合いの爽やかな印象を与える、物腰の穏やかなすらりとした好青年であった。

「どうじゃ?目を見張るようなおなごじゃろうて。わしが認めた小僧の娘なだけあるわい」

 再び嗄れ声で一笑するおキク。そして、二人のやり取りに首を傾げるセレナ。

「仰せの通りに……とても美しく奥ゆかしいおみなごに存じまする」

 男は丁寧にそう返すと、目を丸くするエルフの少女へ向けて口元を緩ませた。数個も年上の異性と、こんなにも間近で接する機会など今までに経験した事がなかったセレナは、戸惑いと、なぜかふと沸いて出た恥ずかしさから、思わず頬を赤らめ視線を逸らす。しかし、どうして自分がそのような行動をとったのか、うまく理解ができなかった。

 

(おかしいな、ガイルにはこんな気持ちにならないのに……)

 

「セレナよ」

 名前を呼ばれ、ハッと我に返るセレナ。

「は、はい。何でしょう……」

 彼女は顔を上げると、声の主であるおキクへ慌てて返事をした。気が付くと、二人の視線を一身に浴びており、更に頬が赤らんでゆくのがわかった。

「ふむ……ま、よいわい。セレナよ、ここに身を寄せるのであれば、それなりの構えが必要じゃ。とは言うても、おぬしにはちいとばかし身を削る覚悟をしてもらわにゃならんがな。いくら一国の王の娘だろうが、ただで世話になろうなんて思うんじゃあないぞ。とまあ、ややこしい言葉をつらねたところで時間の無駄でしかないからの。わしゃあもう年じゃ、いつぽっくり逝くかわからんでな。……耳をかっぽじってよおくお聞きセレナ。そこにおるチヨマルに——ぬしの将来の伴侶となってもらう」

「はん、りょ?」

 エメラルドの瞳が大きく見開かれる。おキクの発言に、これまでに無いほど真剣に耳を傾けていたセレナだったが、正直なところその話の意味が最初から最後まで理解できなかった。

 おキクは、ぽかんと口を開いて呆然としている彼女の表情を横目で窺うと、一度咳払いをしてから声を張り上げた。

「フィアンセじゃよ、フィ・ア・ン・セ」

「フィアンセ……」

「ああそうじゃ。将来お前たちには魔力の高い子を残してもらう予定じゃからのお」

 大きく頷くおキクと、隣で静かに佇むチヨマルという青年。

 そんな二人の間で戸惑いがちに目を伏せながら、セレナは思った。

 

(フィアンセってなんだろう……)

 

 

 

「しっかし、こんなにでかい都を隠せる魔法があるなんてな」

 林の茂みに身を潜め、ガイルは声を押し殺して独り言のように呟いた。

 のどかな田園地帯を進んだところに、忽然と現れた大きな町を遠目に眺めながら、一行は揃って口をあんぐりさせていた。

 かなりの面積を有する敷地に、幅の広い堀が田畑との境界を作り、その堀に守られるようにして、小高い石垣と丁寧に剪定された針葉樹で囲われた、セイル=フィードの南部では見たことのない質素な色の板張りの家屋が並んでいる。

 定められた畑道を辿らなければ、目にすることすら不可能な摩訶不思議な都——

 鷹は、子供達をこの場所まで案内し終えると、大空へと羽ばたき、盆地の最奥に高くそびえたつ崖の方へと飛び去っていった。

 今にもとろけそうな表情で、姿が見えなくなるまで見送っていたピィチ。ガイルとマリンは、そんな彼女を他所に、里に侵入するための作戦を練ることにした。

 

 太陽の傾き具合から、昼食の時刻はとうに過ぎていると思われる。しかし今の子供達にとって、昼ごはんよりも大切なのは、この未知の要塞からセレナをどう救い出すかと言うことだ。

 幸い高い柵や塀などの類は設けられておらず、正面突破が無理でも、周囲を覆う石垣を頑張ってよじ登れば、都へは簡単に侵入ができそうである。

 そんなマリンの提案に待ったを掛けたのは、隣で胡坐をかきながら、地面に木の枝で簡単な見取り図を描いていたガイルであった。

「その間に敵に見つかって囲まれでもしたらどうすんだよ……」

「ま、まあ。そりゃそうよね!」

 残念ながら、マリンはこう言った真面目な話し合いは苦手だった。

「おいピィチ、ちょっといいか」

「なに?ガイル」

 ぼんやりと崖の上の方を眺めていたピィチは、ふいに名を呼ばれて我に返ると、彼の肩に飛び乗った。

「先に行って、空から経路を調べてくれないか?都の周りだけで良い。お前なら中の状況も知ってるし、何かあってもすぐに逃げ帰ってこれるだろ。俺には、怪し気な黒い服の集団が、正面入り口を使って町に入るってのに何か違和感を覚えるんだよな。日が暮れてからじゃ遅いんだ……これ以上、セレナを一人にさせておきたくない。少し危険だけど、みんなの為によろしく頼む」

「ガイルあんた……」

 少女達には滅多に見せない覇気のない表情に、ピィチは彼の心情を察して頷いた。

「アタシだって、セレナに会いたいって気持ちは誰にも負けないんだから……任せておいて。必ず役に立ってみせるワ!」

 遮る物のない空へふわりと舞い上がるピィチ。同時に、田畑を一陣の風が吹き抜けてゆく。

 子供達にとって、吉報を齎してくれる爽やかな風が——

 

 

 

 歌が響く。

 おぼろ月の淡い輝きが降り注ぐひっそりとした中庭に、空気のように澄み切った言の音が響き渡る。

 儚く、それでいて切ないメロディが紡がれ、その一節一節に共鳴するかのように、光の虫たちが舞い踊り、穏やかに流れる風の音も、木々の騒めきも、またとない音を奏する。

 それは、離れ離れになった、大切な人を想う歌詞であった。出会いと別れ、絶望と希望、喜びと悲しみ——それらをときに優しく、ときに激しく歌い上げる。

 いつからだろう、この歌をうたえるようになったのは……

 水面のように揺蕩う心を、音に変えて表現する。彼女にとって、それは心を落ち着かせるための唯一の手段であった。

 

 私には、こんなことしか出来ないなんて……

 

 歌声が止むと、広い中庭は一気に静けさに包まれた。

 外廊下に腰を下ろし、異国の空の下でたった一人、物思いにふけるセレナ。しばらくぼんやりと月明りの照らす中庭を眺めていた彼女は、ふと背後に何者かの気配を感じて、慌てて振り返った。

「驚かせてしまいましたか?」

「え、えーと……あなたは確か……」

 そこには、柔らかな笑みを浮かべるチヨマルが立っていた。