第三十話 私にできること

 一行は、陽光を受けて煌く、大きな湖の前で足を止めた。

 

 平原地帯との境界を描くようにして広がる、緩やかに波打つ水鏡には、外周を囲う鮮やかな緑と青空、後方に連なる山脈が映し出され、まるで逆さまになった同じ世界が水の底に有るのではと思わせるほどに、息をのむ光景である。

 しかし、セレナ達が目を止めていたのは、湖の岸辺に設置されていた、木製の古びた看板であった。そこに書かれている一文を読み上げて、マリンが首を傾げる。

『真実の祠~~立ち入り・遊泳禁止~~』

「何かしらねこれ」

 額に手を当てて辺りを見渡しても、澄んだ水の中を凝視しても、祠の様なものは一切見当たらない。なんとかその祠とやらを見つけ出してやろうと粘り続ける彼女に向けて、先に湖に背を向けたガイルが声を掛けた。

「願いの滝の後は真実の祠かよ?ま、何にしても“今は”入れないってことだろ。こんな所で立ち止まってる暇はないんだ。さっさと先へ進もうぜ」

「あ、待ってよー」

 ぱたぱたと仲間の背を追って駆けてゆくマリン。

 小さな冒険者達が去った後も、水面は何事もなかったかのように平然と揺らめいていた。

 

 そう。ガイルの言葉の通り、この場所に子供達が訪れるには未だ早いのだ。

 時を経て、再びこの場所へ——真実の祠へと赴く日がやってこようなどとは、今の時点では誰一人として想像すらしていなかっただろう。

 

 

 

『ソードクロス!!』

『漣<さざなみ>の舞』

 ガイルの神速な剣術が唸り、マリンの穏やかな舞が仲間達の体力を癒す。

 先の湖から程近くに聳える切り立った断崖の麓。セイル=フィードの北部へと繋がる岩窟の中で、一行は闇に潜む魔物達と交戦中であった。

 相手は、血に飢えた吸血コウモリと鋭い爪を持つ土竜の魔獣、巨大蜘蛛や毒蛇等である。しかし、低級モンスターが相手とはいえ、天井は低く道幅も狭いため、使える技や魔法が限られてしまう。

 通路を阻むそれらを一掃した二人は、ランプを持って最後尾を歩くセレナ、そしてピィチの無事を確認しながら、ゆっくりと歩みを進めていた。

「——さて、森の次は洞窟なワケだが……」

 ガイルが、剣を握り締めたままぼやく。

「こんな魔物だらけの道、使ってる奴なんかいるのかよ?冗談抜きに剣の振り過ぎで腱鞘炎になりそうだぞ」

「だから南部の住人は余程の用事がない限り、北部には行かないんでしょ。途中には無限の砂漠だってあるし、気軽に行けないって言った方が正しいのかもしれないけどね。あ~キモチワルイ!」

 ランプの灯りにぼんやりと照らされた足元には、無数の骨らしきものが転がっている。マリンはそれらを避けながら、セレナの肩にちゃっかりしがみ付いた。

「ごめんね、みんな……私もできれば魔法で援護したいんだけれど……」

 二人のやり取りを眺めていたセレナが、表情を曇らせる。

「気にしなくて良いんだよ。セレナはここに来るまでに結構魔力使っただろ?今は俺達に任せて、しっかり充電しておけよな。あ、毒の治療は任せたぞ」

 ガイルの言葉に、セレナの肩を抱いたままのマリンも、笑顔で頷き同意する。

 実際、村を出てから森を抜け、ここへ至るまでに丸一日歩きっぱなしで、その間にも魔物の群れ等と遭遇し、激しい戦闘になることも何度かあった。

 セレナは、ガイルと共に習得した火の鳥の召喚魔法サモンフェニックスに関しては、割かし楽に扱えるようになってはいたものの、一度の魔力の消費量が多い魔法ゆえ、それなりに華奢な体に掛かる負担も大きいのである。

「うん……有難う、二人とも」

 頼もしい仲間達に感謝しながらも、セレナは控えめな笑みを浮かべた。

「ところで、出口はまだ先なのガイル?アタシそろそろお腹空いてきちゃったわ~」

「おいピィチ、よくこんな所で食欲が沸くな……って、鳥のお前に言っても無駄か……ま、ほぼ一本道だったし、迷ったりもしなかったからそろそろじゃねーか?」

 セレナの肩の上でピイピイとわめく小鳥の娘に顔をしかめるガイル。彼はコンパスを取り出して方角を確認し、道なりに進めば出口に辿り着けると少女達へ告げた。

 しかし、そう思い通りにいかないのが、旅の良い所でもあり悪い所でもある。

 

『グウウゥーー……』

 

「ちっ、また魔物かよ!」

「下がってなさい、セレナ!」

 ガイルとマリンが、通路を塞ぐようにして出現した巨大土竜の魔獣に立ち向かう。

 つるはしの如く鋭い爪が地面や岩壁を深く抉り、金属音が細い通路に響き渡る。激しい攻防によって苦戦を強いられる二人——セレナは、そんな二人が戦う姿を離れた場所からただ眺めていることしか出来なかった。

 目の前で繰り広げられる光景に、きゅっと唇を噛みしめ、静かに視線を送る彼女の様子の変化に、肩の上のピィチは何となく気が付いていたのだった。

 

 

「出口が見えてきたわ!」

 岩壁の漆黒の影の中に、ようやく薄明るい光が差し込んできた。額縁に収まった絵画を思わせる、たった一部だけ外の色が切り取られた箇所。マリンは思い切り伸びをしながら、一目散にその絵画の中へと飛び込んで行った。

 結局、巨大土竜との戦闘の後も道は深く続いており、出口へ辿り着いたのはそれから何時も後であった。

 狭く息苦しい穴の中で、神経を使いながら常に前線で戦っていたガイルとマリンは、外に出るや否や岩壁を背に崩れるようにして座り込んだ。内部にいた時には気が付かなかったが、二人は体中の至る所に傷を負っており、それらを薬草や痛み止めで治療するのがセレナとピィチの役目であった。

「すまないな……出口は直ぐだなんて言っておいて、結局夕方になっちまった。お前もずっと歩きっぱなしで疲れたよな。今日はここで休もうか」

 手当を受けながら、セレナに普段と変わらない笑顔を向けるガイル。セレナは、それに小さく頷きながら、静かに微笑み返した。

 

 彼の言う通り日は落ち始めていた。雲の合間から、空色と淡い緋色のグラデーションが見え隠れしている。

 一行が身を休めているこの場所は、どうやら人の手によって削られた、洞窟の東口から北部へと向かう為の通路となっているようで、馬車が横に二台並んでも余裕ができる程度の広さはあった。その山腹に作られた道に沿うようにして簡素な木製の柵が設置されており、柵のすぐ向こう側には、広く深い谷が遥か遠くまで続いている。

 エリーゼが用意してくれた、日持ちのする食料や菓子で腹を満たした子供達は、道端に転がる大きな岩を背にテントを張って、この場所で今晩を過ごすことにした。

 ガイルとマリンは横になった途端に深い眠りについてしまった。相当な疲れが溜まっていたらしい。

 一人、中々寝付けないセレナ。彼女はすぐそばで寝息を立てている二人を起こさないようにしながら、そっとテントから表へ出て、谷の方へと歩を進めた。

「…………」

 崖下に広がる靄が、月明りを受けて星の河の如く白銀に輝き、とても神秘的な峡谷であった。その反面、柵から身を乗り出しても靄の中に谷底を確認することはできず、向こう岸を見渡すのも困難なほどの広さは、背筋の凍る光景でもある。

 セレナは、整えられた道の谷側を歩きながら、窮屈な岩窟の中では一切感じ得なかった心地よい空気を全身に浴びていた。しかしそれは、彼女にとって重い心を紛らわすための行為であった。

 ガイルの言葉を思い出して、ふと目を伏せる。

(私はガイルみたいに剣も使えないし、マリンちゃんみたいに戦い方もわからない……魔法が使えなくなってしまったときに、もっと役に立てることはないのかな……)

「セレナってば、また一人でウロウロしてっ!」

「ピィチちゃん」

 ふらふらと、虚ろな表情で歩き回る彼女のもとへ、テントの方からご立腹な様子のピィチが飛んで来た。

 ピィチは小さな肩にちょこんと止まると、セレナがぼんやりと見詰める目線の先を追った。

「それにしても、すっごい谷ねえ。落ちたらひとたまりもないわね!あ。でもアタシは飛べるからそんな心配いらなかったわ」

 彼女なりの冗談を言ったつもりであったが、それでも浮かない表情で小さく頷くセレナに、今度は声のトーンをできる限り抑えて尋ねた。

「……何かあったの?洞窟の中から、なんだかおかしかったじゃない。アタシ気付いてたんだから。ずっと一緒に育ってきたんだもの、それくらいイヤでもわかっちゃうわよ」

「何もないよ、何もないけれど……何もできないのが辛いの」

「どういうこと?」

 ピィチの問いに口籠るセレナ。そして、再び静かに目を伏せた。

「願いの滝の森でもそうだった。言い出したのは私なのに、魔法が使えないせいでガイル一人に任せきりで、魔獣の幻が現れても隠れて見ているしかできなかった。それに、マリンちゃんも……いつも守ってくれているけど、私を庇いながら戦うのは凄く大変だと思う。——だからもう少しだけ、私にも何かできないかなって。そう、考えていたんだ」

「セレナ……」

 セレナは、切なげな笑みを浮かべながら、柵に背を預け夜空を仰いだ。

 

「私にも、もう少し皆を守れる力があったらな……」

 洞窟のこちら側は、南部と比べると夜の空気が一段と冷たく、北の山から流れる風は、目的の大地がそう遠くはないことをその身に感じさせる。

 寒さのあまり、肩の上で思わず身震いをするピィチ。それに気付いたセレナは、片方の手のひらを彼女の体にそっと添えて、震える小さな体を温めてあげた。

「そろそろ戻ろうか」

 そう一言呟いて、テントの方へと踵を返す。

 しかしその刹那——何処からともなく湧き上がった真っ白な煙幕が、帰る間際の少女達を強制的に停止させた。

「えっ……!?」

 セレナは、あまりにも突然の出来事に立ち止まり視線を巡らせるが、どこを見渡しても、止め処なく溢れ出る分厚い煙の壁によって、視界は遮られてしまう。

「な、なんなのよコレ——!!」

 慌てて騒ぎ立てるピィチ。彼女を守ろうと、両手でもって肩の辺りを防ごうとするセレナ。ところが時既に遅し、そこに居たはずの小鳥の姿はいつの間にか影も形もなくなっていた。

 そして間もなく、一人取り残されたセレナ自身も、立ち上る煙幕の中へ音もなく連れ去られるのであった。

 

 

 

 夜が明けて。

 ガイルとマリンにとって、状況の変化に気付くのに時間はいらなかった。

 無論その変化とは、隣で安らかに眠っているはずのセレナと、子供達に朝を知らせるピィチの姿が、テント内のどこを探しても見当たらないという事である。

 顔を見合わせ、同時に現状の整理を図る二人。その後、ガイルはテントの周辺を、マリンは洞窟付近を探し回る。そして少しの間の後、二人は思い立ったように全速力で崖の方へと走り出した。

 目を凝らせば薄っすらと窺い知れる、遥か眼下の谷底を眺めながら、青ざめたマリンがすぐ横で全く同じ表情を浮かべているガイルに問い掛けた。

「まさかあの子ってば……ここから落っこちたんじゃないわよね……?」

「お、おいお前、縁起でもないこと言うんじゃねえよ……」

「じゃあなんでセレナが居ないのよ!!」

「俺に聞くなよ!と、取り敢えず、ちょっと冷静になろうぜ」

 居ても立ってもいられず、谷底に向けて声を張り上げるマリン。ガイルは、そんな彼女を横目に考えを巡らせる。そして、ふと港町シエルでの出来事を思い出したのであった。

 まさか、山賊にでも攫われたんじゃ——?

 もしそうだとしたら、あんなに可愛くて健気で純粋で、それこそ女神みたいな女の子を、やつらが放っておくわけがない。今頃きっと、言葉では言い表せないような、あんなことやこんなことをされているに違いないだろう。

「…………」

 む、無抵抗のセレナに対して、あ、アンナコトヤコンナコトヲ——?

「…………おいマリン!何してんだ!!さっさとセレナ探しに行くぞコラ!!」

「な、何よ急に怒鳴ったりして!冷静になってたんじゃなかったの!?っていうかアンタ鼻血でてるわよ!」

 血相を変えて気負い立つガイルに腕を引かれ、目を白黒させるマリン。

 ところが次の瞬間、周囲一帯に聞きなれた声が響き、二人の足を止めたのだった。

「ガイルーマリンーー!」

「ピィチ!?」

 空の彼方から突如姿を現したピィチ。彼女は、息も絶え絶えに二人のもとへ舞い降りると、呼吸を整える間も無く言葉を連ねる。

「大変なの!セレナが……セレナが……ヘンな黒い服を着た人たちに捕まっちゃったの……!!」

「へ、へんな黒い服?」

 ガイルとマリンは、慌てふためくピィチの言葉を受けて、疑問符を浮かべながら顔を見合わせた。しかし何はともあれ、セレナが連れ去られたのは、ピィチの登場によって否むべからざる事実となってしまった。

 隙を見て逃げ出してきたという彼女の言葉の通りだと、崖沿いを南に少し下ったところに、大きな吊り橋が有るらしい。

 

 その向こう岸に、セレナは捕らえられている——

 ガイルとマリン、そしてピィチは、謎の集団から大切な仲間であるセレナを取り戻すべく、橋の架かる方へと足早に向かっていった。