第十七話 一時の安息

 心地の良い風がカサカサとヤシの木の葉を揺らし、一団の両脇を通り抜けてゆく。

 

 地面には柔らかな木陰と差し込む光のコントラスト。一歩足を踏み入れれば、太陽神ソウルの厳しい試練からようやく開放されたような安らぎさえ感じられる。

 ここオアシスは、広大な死の砂漠と称される場所で唯一、潤いと癒しを得られる、疲れきった旅人達からしたらまさしく“小さな楽園”である。

 しかし規模は小さいながらも、オアシスを経由しなければ砂漠越えは不可能とも言われている程に、この地へ訪れる者にとって重要視されている場所でもあった。

 セイル=フィードの南側で暮らす住民が、島の北側へは滅多に行かないのと同じように、砂漠の民は一度たりとも他方へと足を運んだ事が無いらしい。それ故、古参のキャラバン隊から食料や物資を購入する為に、客商売で得た僅かな資金でやりくりをしているそうだ。

 旅人は憩いの場を必要としており、彼らは生活を送る為に旅人を必要としている。オアシスの安寧は、こうした繋がりによって保たれているのであった。

 

 セティに支払いをしラクダ車を降りた子供達は、彼の案内を受けながら、白の石畳で舗装された道に沿って村内へ歩みを進めた。途中、親しげに声を掛けてきた村人を見て、セレナはふとフリースウェアーの城下町での出来事を思い出していた。

 まだ見ぬ世界への期待と不安。だが、今回に関してはあの時と大きく違う部分がある。それは不安よりも期待の方が勝っているということ。初めての体験の数々に子供達は皆興奮の色を隠せない様子で、マリンに至ってはまるで純粋な“旅行”にでも訪れたかのようなはしゃぎっぷりだった。

 雑談を交えながら湖の北側へ周った一行は、看板に“INN”と書かれた二階建ての建物の前で足を止めた。今晩はこの宿で寝泊りする予定である。

「さて。オイラ達は買出しに行って来るから、おっさんと女の子は適当に過してなよ」

 おっさん呼ばわりにむくれるゼロムを尻目に、セティは涼しい表情で話を続ける。

「そうだ、折角だし先に水浴びでもしてきたらどうだい?」

「きゃあ、良いの?丁度汗を流したかったところだったの!」

「みみ水浴び!?」

 瞳を輝かせるマリンの隣で、なぜかガイルがすっとんきょうな声を上げた。

「だ、ダメだ!水浴びなんかしたら、そんな……せ、セレナのは……は……」

「こんな事もあろうかと水着を持ってきておいて正解だったわ!はい、これセレナのぶん♪じゃ、後は頼んだわよ~!」

 

 少女達はそう言い残すと、ガックリと肩を落とすガイルを他所に楽しそうに去って行く。そんな彼の心情を知って知らでか、セティはにやけながら「残念だったね」と肩を叩いた。

 

 

 夜まで自由に行動をする事になった一行。先に宿で休んでいると言うゼロムと別れ、少年達は道具屋で旅支度を済ませていた。

 オアシスに構える家々は港町シエルのものと若干似ており、格子の施された開放的な窓からさらりとした風が通り抜け、居心地の良さを存分に感じられる造りになっている。ラクダ車の幌部分と同じ色鮮やかな織物が壁や天井を彩っており、その美しさにぽかんと口を開けたまま、ガイルは店内の隅々を見回していた。

 セティは回復薬や痛み止め等の道具を手際よく買い上げ、同じ小麦色の肌をした気さくな店員に軽く挨拶をすると、壁に掛けられている、天然石の埋め込まれた武器に目を留めていたガイルに、さっさと外に出るよう促した。

 

 降り注ぐ陽の光が小魚の鱗に反射し、湖の水面がきらきらと煌いている。

しかし、それ以上に輝きを放っているのは、青空の下で楽しそうに水遊びをする華やかな少女達だと——その光景を目にした者達は思っていたに違いないだろう。

 そんな少女達の様子を、ヤシの木陰に腰を下ろし遠目に眺めている少年二人。

 ガイルは一人葛藤していた。見てはいけないものを見ているような罪悪感に囚われながら、目を逸らすことの出来ない正直な自分と。

 セティに関しては別段変わり無い表情のまま、袋から取り出したデーツの実を頬張っている。上着を脱いで露わとなった彼の体は、同じ男から見ても惚れ惚れする程にしなやかで美しかった。

「……お前って本当に俺達と同じくらいの年なのかよ。にしちゃあ、やけに冷静だよなあ。喋りも大人びてるしさ……」

 中々顔のほてりが治まらないガイルが、肩を並べる少年に知らしめるかの如く、大きな溜息を吐いた。

「どうだろうねえ。自分の年齢なんて調べてないから。このオアシス自体、時の流れが止まっているような場所だから住民は皆そんなもんさ。ただ、前回の黄泉の宴の時には生まれてたのは確かだよ。親は……よく覚えてないけど」

「よく覚えてないって……」

ガイルは思わず言葉を呑んだ。なぜならこれ以上この質問を続けてはいけない気がしたから。

「——な、なあ。ここでは武器も作ってるのか?オアシスは砂漠の楽園なんだろ。武器なんか作る必要あるのかと思って」

 少しの間を置いてから、彼は再び隣の少年へ向け、先程から抱いていた疑問を投げかけた。

 思わぬ質問に対し相好を崩すセティ。

「なんだい、さっきのは見惚れていた訳じゃないのか。そんな技術はこの村には無いよ。武器は偶にやってくるキャラバンから仕入れてるんだ。主に旅行客に売る為だけど、一応オイラのシャムシールみたいに皆護身用に身に着けているんだ。いつ何が起こるかわからないからね」

「完璧な平和なんて無いって事か……」

「それであんたは——」

 一人納得し言葉をつぐんだガイルであったが、不意に視線を感じ顔を上げると、今までとは打って変わって真剣な表情を浮かべるセティがこちらを見詰めていた。

「あんたは、この旅の途中で黄泉の宴が訪れたらどうするつもりだい?」

「どうって……何だよ突然」

 僅かに戸惑う彼に、無言のまま鋭い視線を送り続けるセティ。突如訪れた異様な雰囲気の中で、二人の間にしばしの沈黙が流れる。

 しかし、それを断ち切るかの如く先に口を開いたのは、言わずもがなガイルの方であった。

 

「どうもこうも、その時になったら出来る限りの努力をするだけさ」

 迷い無くそう呟くと、ナイフの様な眼差しで見詰めるセティから、戯れる少女達の方へ視線を移す。

「俺は黄泉の宴の怖さをよく知らない。実際にその日が来るまで、何が出来るかなんてわからない。——見てみろよ。セレナもマリンも、辛い過去を背負ってるのに、あんなにも笑顔でいられるんだぜ?俺が一人でビクビクしてたらこの旅に支障が出るかもしれないだろ。だから今は、想定や仮定よりも現実を大切にしたいんだ。……仲間を、不安にさせたくないんだ」

「たとえ今この瞬間、世界が闇に包まれたとしても?」

「はは。俺に世界の未来をどうこう出来る力なんか無いからな。その代わり、その時にやらなきゃいけない事をがむしゃらにやる!それだけだよ」

「そうか……」

 

 この少年は、なんて正直なんだろう——

 今の己に出来うる事を誰よりもよく理解していて、高望みは一切しない。故に危うくもあるが、目に見えない終末よりも、今側に居る友の心を何よりも重んじる。

 あんたみたいな仲間の支えがあるからこそ、少女達は前向きでいられるんだね……

 

 彼の意思を知ったセティは、ふっと口元を綻ばせた。

「試すような質問をしてすまなかったよ。オイラが思っている以上に、あんたは彼女達が大好きなんだね。きっと将来は良い旦那になるだろうよ」

「ちょ、ちょっと待て!?」

 内容とはおよそ見当違いなセティの返答に、ガイルは慌てて目を白黒させた。

「何か問題でもあるのかい?だってあんたはセレナが好きなんだろう?」

「いやいやいや、誰が好きとかそんな話をしてたんじゃねえだろ!せ、セレナのことは、あ、アレだけど……っつーか黄泉の宴の話をしてたんだろうが!?お前ってやつはホント——」

「二人ともー!」

 尖った耳の先の方まで真っ赤に染めながら、セティに詰め寄るガイル。そんな彼を制止したのは、オアシスの湖のように澄み渡った二つの声音であった。

「こんな所で何喋ってたの?あたし達には言えないようなこと?」

 今度は抜群のスタイルを誇るマリンに詰め寄られ、彼女の豊満な胸元が目の前に現れると、素直な少年は紅潮したまま勢いよく顔を背けた。

「べ、別になんでもねーよ!秘密だよヒミツ!服が濡れるからあんまり近寄るなあ」

「でも、なんだか汗だくだし、顔が真っ赤ねえ」

 マリンの隣で不安そうにその様子に見入っていた、鶯色の可愛らしい水着を纏ったセレナ。

 ピィチの言葉に、彼女は「そうだ」と小さく膝をうつと、次第にしどろもどろし始めたガイルの手を取り、思い切り湖の中へ引っ張った。

「二人も一緒に泳ごうよ!きっと涼しくなるよ」

「セレナなにし——うわあ!?」

 突然の出来事に大きくバランスを崩したガイルは、そのまま水の中へ真っ逆さまにダイビングした。

 当事者であるセレナは、想像もしていなかった惨事に口元に手を当て目を丸くし、マリンとセティは揃って腹を抱えて爆笑している。

「……お、お前らなあ……!」

 ずぶ濡れのガイルの頭の上で小魚が跳ねる。

 彼は対象を少女達に定めると、半ばおちゃらけた様子で沖へと逃げて行く二人の背中を、こぶしを上げながら追いかけて行った。

 

 湖の岸辺に残されたセティ。そこには、嵐の後の様な静けさが残った。

 穏やかな時間が流れる中で、相変わらず心地の良い風がヤシの木の葉をかすめ、足元の木陰をゆらゆらと揺らしている。

「……オイラはこうだよ、ガイル」

 ふいに訪れた静寂に身をゆだね、遠目に見える子供達を虚ろに眺めながらセティは呟いた。

「黄泉の宴はなにも恐ろしいものじゃない。どんな賊や悪党も、儀式の最中は手を取り合って生きてゆく。手を取り合わなければ生きてはいけないんだ。その間だけは人々の間に隔たりが無くなる。だからいつだって考えているんだよ。それで世界が平和になるなら——今この刹那にでも、永久の宴が訪れてしまえば良いってね」

 

 一陣の風が髪をすくって去って行く。

 今夜はえらく騒がしい夜になりそうだ。

 彼ははしゃぎ回る子供達に背を向けると、 宿のある方向へと一人、歩みを進めた。

 

 

「ごちそうさまでした~!」

 スパイスと辛味の効いたオニオンカレー、香草をふんだんに使用したチキンとナッツの炒め物、色鮮やかな干し野菜を練り込んだパンに、香りの良いひよこ豆のスープ……腹を空かせた一団は、テーブルいっぱいに敷き詰められたそれらの料理を、ものの数分で綺麗さっぱり平らげた。

 今晩の宿は貸切である。他に旅行客は泊まっていないらしく、一階の広間に集まり、全員で夕食を済ませる事になったのだ。

 この小さな村の住民は皆身内の様な仲らしく、セティのことなら何でも知っていると言い張る威勢の良い中年女性が宿を仕切っており、彼女の厚意で宿泊代を半分にしてもらえた。

 宿を自由に使って良い代わりに、風邪を引くといけないから外には出ないようにと念を押された子供達は、上機嫌でそれぞれの部屋へと散っていった。

 相部屋のセレナとマリン、そしてピィチは、女子会さながらの賑わいようである。特に年頃のマリンは、ここぞとばかりにセレナへ向け、恋愛に関する質問の数々を浴びせた。

 そう言った話題にからっきし疎いセレナ。そんな少女を他所に「ガイルは子供っぽくてダメ」だの「セティは生意気だけどガイルよりはマシ」だの、いつの間にか自らの恋愛論を繰り広げるマリン。

 空想上の王子様との妄想に浸る彼女に対し、セレナは思わず苦笑いを浮かべ、ピィチはやれやれと言った様子でかぶりを振った。

 

 

(……わたしの好きな人、か)

 

 湖を望む小さなテラスで、先程の会話をぼんやりと思い返すセレナ。

 マリンとピィチは一足先に深い眠りにつき、彼女達の"おしゃべり"が途絶えた室内は、水を打った様にひっそりと静まり返っていた。

 夜の帳の下りた外灯の無い村内には、時折フクロウに似た鳥か何かの鳴き声が聞こえるのみであったが、それでも物憂げな気分にならないのは、空を見上げれば無数の星が、湖に目をやれば映り込んだ大きな月が悠然と輝いているからであろう。

 

 こんなにも美しい景色を好きな人と見る事ができたら、どんなに幸せだろう——

 

(私はお父さんもお母さんも、ピィチちゃんも、ガイルもマリンちゃんも、旅に協力してくれたレダさんやウォーダンさんもセティさんも皆好き。けれど、きっとマリンちゃんが言っている"好き"は、私の思う"好き"とは違うのかもしれない。よくわからないけど、お父さんがお母さんを思っていたみたいに、いつか私にも誰かを特別だと感じる日がくるのかな……)

「……?」

 手すりに顔を伏せるセレナの耳に、どこからとも無く音の繋がりが聴こえてくる。身を乗り出して湖のほとりに目を向けると、そこにはリュートを奏でる少年の姿が見てとれた。

「セティさん……」

 流れるように優しく、それでいて切ない音色が、砂漠の小さな村を包み込む。

 麗しき月の女神ルナーへの恋心を表題とした古から伝わるその唄の詩は、双生神である太陽神ソウルの視点で綴られており、報われない愛を嘆く悲恋歌でもあった。

 セレナは、なぜかその歌を知っていた。

 森の民に教わった記憶は無かったが、いつの間にか無意識の内に口ずさんでいたのである。

 どこかで聴いたことがある——そう、柔らかな腕の中で——

 

 セレナは歌った。

 輝く星々に抱かれ、月に見守られながら、広大な砂の大地に響き渡るように。

 美しいリュートの音色にのせ、透き通るような声音で、自らと古の神々を重ね合わせて……

 

 少女は、新たな気持ちが芽生えるその日が待ち遠しくもあり、なぜだか恐ろしくもあった。