第十六話 神々の詩

 果てしなく続く浩浩たる星の海に、音の無い静かなる大地に、繊細なリュートの音色とセティの透き通る様な歌声が響き渡る。

 それは、セイル=フィードに古から伝わる神々の伝説。

 壮大でありながら、歴史上最も愚かとされる神々の物語であった。

 

 

 

 ——遥か、遥か遠い昔——

 

 夜を統べる麗しき月の女神ルナー、昼を統べる猛き太陽神ソウルは、この地に一つの生命を誕生させた。名を"アトラス"。セイル=フィードの主柱となるべく生み出された、唯一の希望であった。

 幼いアトラスは、天の神々から授けられた魔力と知識を存分に生かし、海には幼魚を、空には鳥を、大地には小さな草花を創り出した。

 やがて、咲き誇る花々や木漏れ日、焚火の火の粉や海の水からは、更に新たな命が誕生した。清らかな場所でしか生きる事の出来ない、属性の源となる精霊達だ。

 彼の働きによって、殺風景な土色の世界は、緑あふれる美しい世界へ変貌を遂げる。長い年月を隔て、少しずつでは有るが、セイル=フィードは神々の望んでいた世界に近付いていった。

 

 ある日、アトラスは自らが生み出した生命達の営みを眺めている最中、ふと思う。

 空を舞う鳥達も、水面を泳ぐ魚達も、静かに佇む木々ですら、寄り添い命を紡いでいる……

 

 なぜ私には、支えあう同士が存在しないのだろう?彼が地上に降り立ってから、初めて抱いた疑問だった。

 世界は様々な幸福で徐々に満たされてゆく。しかし、ふと抱いた疑問によって、自らの心には小さな隙間が生まれてしまった。

 アトラスは、一刻も早くこの"隙間"を埋めたかった。それがこの地に初めて生まれた"欲"でもあった。

 

 彼は再び長い年月をかけ、いつしか自身と同じ姿形の命を創り出す。

 人間。

 自らと同じ姿をした人間と言う生物は、有ろう事か、自らが知る神々の姿とも酷似していた。そしてようやく気付く。

 自分自身が、このセイル=フィードの創造神で有る事に——

 

 老体のアトラスは与えられた使命を全うすべく、自らが創り出した命に知識と魔力を分け与えた。

 知恵を得た人間達は、身を守る為の住処を造り、独自の方法を見出して命を育み、それによってこの地に様々な種族が生まれる。中には、今では相容れないとされている魔族の始祖となる者も居た。

 アトラスは日々進歩し続ける人間達、そして新たな種族達に世界の未来を託す。

 彼の力は、その時既に枯渇しかけていた。

 

 だが神々にとって、それは賞賛であり誤算だった。

 

 アトラスの創り出した生命達により、各地に国や大きな町が造られ、セイル=フィードは見る見るうちに繁栄してゆく。

 しかし一方で海は汚され、森林は開拓されて、行き場を無くした精霊達は徐々に数を減らしていった。

 属性の源である精霊を失った土地の稲は枯れ、果実も実らず、生きる事が困難になった者達は、いつしか不満と言う感情を抱くようになる。

 やがてそう言った感情、つまりは“欲”を抱いた者達により暴動や戦争が勃発する。

 

 天を統べる神々は、愚かな生き物の行いを怒り、嘆き悲しんだ。

 そしてセイル=フィードの住人、更には全ての欲の源となった創造神アトラスへの戒めと制裁の為に、ある一定の周期のみ、この地を太陽の温もりも美しい月明かりも無い暗黒の世界に変えてしまう——

 

 

「それが"黄泉の宴"の始まりだった……」

 

 セティはゆっくりと瞳を開いた。

 リュートの音色が止むと同時に、周囲はひっそりとした、いつもの物寂しげな砂漠の夜に戻ってゆく。自らの語りに聊か浸り気味であった少年は、ふと聴き手の存在を思い出して、視線をそちらへ向けた。

「おいおい、そんなにこの音色が心地良かったのかい」

 体三つ分は有するであろう高さから軽やかに飛び降り、岩にもたれすやすやと寝息を立てているマリンに、羽織っていた厚手のマントを覆い被せる。

 屈託の無い表情。セティは彼女の寝顔を見て小さく溜息を吐いた後テントの方へ目をやった。見た所、特にこれと言った変化はなく、しんと静まり返った一帯を焚き火の炎だけが明々と照らしている。

「まあ、良いけどさ。でも……この話には続きがあるんだ。もう少しだけオイラの自己満足に付き合ってくれないか?」

 

 誰に向けた訳でもなくそう呟くと、少年は腰を下ろし再びリュートを奏で始めた。

 

 

 ——黄泉の宴に侵されたセイル=フィード。

 そこは太陽も月も拝む事の出来ない、薄闇に覆われた、さながら死の世界だった。

 精霊を失い天の神からも見放されたこの地で、一つ、また一つと命の炎が消えてゆく中、創造神は思った。

 このままでは、私の生み出した子供達を失う事になる。

 アトラスは様々な手段を用いてこの現状を打破する術を探った。しかし、それは神にとってタブーとされている方法でもあった。

 彼は自らセイル=フィードの住民達の目前へ姿を現すと、飢えた者を、凍える者を魔力によって癒し、迷える者達を導き、有りっ丈の力を黄泉の宴の悲劇から“家族”を守る為に費やした。

 

 もう二度と孤独にはなりたくない。例え如何なる罰を受けようとも……

 

 アトラスの献身的な働きにより、宴による被害は最小限に止める事が出来た。

 身を潜めていた精霊達は安寧を取り戻した地へ舞い戻り、そして命を繋いだ人々は彼を総賢者として崇め、彼の教えを受けて、己らの生き方を改めようと誓った。

 しかし、天の神々は罪を犯した創造神を放っておく事は出来なかった。

 ルナーとソウルは、自らの創り出した生命でもある背徳の神アトラスを、氷で鎖された最果ての地にその身体ごと封印してしまった。

 総賢者を突如として失ってしまったセイル=フィードの住民達。十五年の時を経て、人々は再び黄泉の宴の制裁を受ける事となる。

 神々にとって、それは試練でもあり試験でもあった。

 アトラスを欠いた世界で、住民達は如何にして命を繋いでゆくのかと——

 

 ところが、程なくしてルナーとソウルは揃って目を見張る事になる。

 

 彼らの思い描いていた予想に反して、地上の生き物達は互いに手を取り合い、物資を分かち合い、知恵を振り絞り苦難を乗り越えようとしていた。

 それは今は無き創造神が、自らの生み出した家族の前から去る間際に伝えた生きる術だった。

 天の神々は、己らの愚かさに酷く失望した。

 己らの創り出した生命——アトラスは、欲深き身勝手な生き物ではなかった。未来有るものへ向け、自らが任された使命を全うしたではないか。

 

 天の神であるルナーとソウルは、以来アトラスに代わって生き物達の営みを見守り、道を照らす為により一層明るい日差しを、美しい月明かりを地上に送ると誓う。

 しかし、定期的な黄泉の宴を止める事はしなかった。

 なぜなら長きに渡る輪廻の中、この平穏なセイル=フィードで、いつしか努力や苦労を忘れあの日と同じ過ちを繰り返す者が現れ出ないとは限らないから。

 戒めの儀式である黄泉の宴は、こうして今も尚続いている——

 

 

 

「神に振り回されてる人々からしたら、彼らこそ身勝手な存在なのかもしれないな。けれど、手を取り合い、支え合う事でどんな苦難も運命も乗り越えられる。それを忘れちゃいけない……」

 交代の時間は過ぎていたが、セティは次の見張り役であるガイルを呼びに向かおうとはしなかった。

 若き旅人をわざわざ起こすのもなんだか気が引けるし、頬を掠める優しい風と穏やかな時間を、ほんの僅かでも長く感じていたかったから。

「それに、アンタを置いてはいけないしね」

 隣で深い眠りについているマリンに目を細める。

「まったく……いつその儀式が始まるかもわからないって時に、暢気なやつらだねえ。まあ、そんな事考えていたって仕様がないか。オイラ達は神の気まぐれに従う事しか出来ないのだから……」

 少年は最後にぽつり呟くと、美しき月の女神が見守る中で、ゆっくり瞼を閉じた。

 

 

 

「セティごめん!思いっきり熟睡してた……」

 休憩場所に両手を合わせる乾いた音が響く。

 燦々と降り注ぐ陽光の下、役目を果たす事無く一夜を明けたガイルは、たった一人で見張り役を請け負っていたセティに何度も何度も頭を下げていた。

「別に気にしなくていいよ。疲れてたんだろう?オイラなら慣れてるからさ」

 片付けをする彼の淡々とした反応に、ガイルは一度目を丸くしたが、我に返り素早くそれを手伝った。

「いや、駄目だ!お前には恩もあるし、男の約束なんだからいつか借りを返させてくれよな!?」

 ガイルの真っ直ぐで真剣な眼差しを受け、今度は意表を衝かれたセティが目を丸くする。そして小さく含み笑いをすると、少年らしい太陽の様な笑顔を返した。

 同じ年頃の少年同士、話に花を咲かせる二人は気付きもしなかっただろう。もう一人の見張り役であるゼロムが、そそくさとその場から逃げ去って行ったことに。

 

「さ、準備オーケーね!目指すは砂漠の楽園、オアシスよ!」

 ラクダ車の荷台には、女性陣とおまけの行商人が乗り込んでいる。マリンは昨日の疲れが嘘だったかのように、彼女らしい溌剌とした声を上げた。

「マリンってば元気ねえ。アタシも楽しみだけどねっ」

 隣でマリンとピィチのやり取りに微笑むセレナも同じであった。

「セティさん」

「ん?なんだいセレナ」

 二頭のラクダの片方を操作していたセティは、名前を呼ばれ後方を振り返る。

「昨日は有り難うございました。凄く綺麗な音楽が流れてきたからぐっすり眠れて……」

「ああ、聴こえてたのかい?あんなのは単なる自己満足だよ。でも綺麗だなんて滅多に言われないから、こっちこそ有り難う」

 不意に掛けられた感謝の言葉に、彼は思わず顔を赤らめながら少女へ礼を言った。

 セレナの言う通り、セティの奏でる音楽は、少女達の歌声や舞いにも似た力を秘めており、音色によって皆の旅の疲れが癒されたのは事実であった。

「今度また聴かせてください」

「はは。ここに来ればいつだって聴かせてあげるよ」

 ガイルは隣のラクダの上で二人の会話に聞き耳を立てながら胸に誓っていた。帰ったら音楽を習おうと。

 

 オアシスへは、砂漠の民の案内通りに進めば、半日掛からずに到着できる。

 砂漠の民の案内があれば、だ。それが無い場合、地図に記された最短ルートを通ったとしても辿り着くのに数日掛かるという。

 なぜかはこの地の住人であるセティであっても、はっきりとはわからないらしい。地形が変わるとも、理解しがたい不思議な力が働いているとも噂されているそうだ。

 一度足を踏み入れたら最後。まさに“無限に抜け出す事の出来ない砂漠”の異名に相応しい場所だ。

 

 ラクダ達の足首には鈴が付いていており、歩みを進める度にシャンシャンと軽快な音が鳴る。魔物避けの効果が有るらしく、おかげで一行は戦闘を最小限に止める事ができた。

 砂漠地帯に潜む魔物といえば、主にリザードマンである。やつらは敵から逃れる術を心得ており、更には武器を使用するなど高い知能を持っているという、キャラバンやラクダ引きにとっては非常に厄介な存在だ。

 セティの剣捌きは、幼い頃から剣に慣れ親しんでいるガイルにも引けを取らない程に鮮やかだったが、彼は魔物相手であっても、出来る限り血を流さずに済むように、共闘する子供達へ促していた。

「平和主義なんだ。それに砂漠が汚れるのは嫌だからね」

 魔物を生かして逃すなど、この地の住人ではない者達からしてみたら聊か理解し難い行いではあったが、セティの人柄ならば十分に頷けた。

 

 そうこうしている間に——

 

「あれが……」

 一際大きな砂丘を超えた先に忽然と現れたのは、延々と続いていた砂色の海からは想像も付かないような絶景であった。

 晴れ渡る空の色と寸分違わぬターコイズブルーの湖。そこには太陽の光や流れる雲の影、そして周りを抱くように囲うヤシの木が鮮明に映し出されている。水辺には沿う様にして白土塗りの家が点在し、砂漠の民と呼ばれる民族が、命の源でもある湖との間をせわしなく行き来している様子が伺えた。

 子供達にとって、そこは童話の中でしか知らない世界。まるで、幼い頃に読み聞かされた絵本の中に飛び込んだような、不思議な感覚であった。

 目の前に広がる幻想的な光景に、揃って瞳を輝かせている子供達へ向け、セティは胸を張って言い放った。

 

「美しいだろう?そう、ここがオイラ達の聖域、オアシスさ!」