第六話 秘めたる力

「はあ?」

 意表を突かれたロアからすっとんきょうな声が漏れた。同時に、右手から肘までを覆っていた漆黒の炎は、力を失いすうと消え失せてゆく。

 もちろんそれは、ガイルに至っても例外ではない。少女の口から発せられた思いもよらぬ言葉、そして誰しもが恐れ慄く冷酷な魔族と、前向きに接しようとする姿勢に驚きを隠せずにいた。

 当のセレナは二人の様子を知ってか知らでか、真剣な表情を浮かべたままである。どうやらその一言を発する為に、やはり彼女なりに相当な勇気を要したようで、相手を見据えながらも未だカクカクと震えていた。

 だが——相対する男は禍々しい炎を自ら消し去り、少年は剣を下ろした。彼女は殺伐とした空気を、たった一つの言の葉で和やかなものへと変えてしまったのだ。

「馬鹿かお前。のこのこ湧いて出てきたと思ったら、この状況で「お話しできませんか」って何だよ?ふざけてんのか?」

「ご、ごめんなさい……」

 ロアは腹を抱えて笑いこけ、セレナは恥ずかしそうに顔を赤らめては、なぜか魔族の男に謝罪をしている。

 ガイルは、二人の様子を交互に見ながら呆気にとられていた。兄と対峙するようになってから今まで、こういった状況になったことなど、一度でもあっただろうか——

 彼はその時ふと、レダから聞いていたティファナの話しを思い出したのだった。

 

(もしかして、人の心を癒す力がセレナにも……?)

 

 笑声が収まりつつある頃、セレナは一度深呼吸をすると、ようやく言葉を発した。

「魔族さん、聞きたいことがあるの……!!」

 男はにやにやと薄ら笑いを浮かべながら、それに承諾する。

「お、おい、セレナ……」

 不安げに名を呼ぶガイルであったが、なぜか彼女の言動を止められずにいた。興味——そういった感情も、少なからず存在していたのかも知れない。

 セレナは再び最大限の勇気を振り絞り、魔族と向かい合った。

 「ティファナという女の人を知ってますか?」

 

 刹那、ロアの顔色が変わった。

「!!」

 ガイルは空気の変化をいち早く察すると、セレナの腕を引き自らの背後へと避難させる。明らかに先程とは異なる兄の様子に、彼は再び強く剣を握り締めた。

「お前らそいつの知り合いか?」

 今まで薄ら笑いを浮かべていたロアの表情は、殺気に満ちたものへと豹変する。

 ピリピリと、そこら中を駆け巡る緊迫感。逃れる事のできない強大な憎悪心。リースの森に現れる魔獣の比ではない。それはセレナにも十分に理解できた。

「さっさと答えろ」

 知っている。この魔族は母を知っている……

 しかし恐怖に怯えるセレナは、男の問いに答える事すらままならない状態である。 

「知り合いだったら、何だって言うんだよ」

 戸惑っている暇などない。彼女を横目で一見したガイルが、足が竦むほどの悪寒を感じながらも、代わりに返答をし——

 それとほぼ同時である。

 突如ロアは瞬時に作り出した黒炎の球を、二人目掛けて躊躇い無く投げつけた。

「セレナ!!」

「きゃあ!」

 黒炎は倒れこむ二人のすぐ横を通過し、爆音と共に地面に大きな窪みを作った。

 ガイルの咄嗟の判断が功を奏し直撃は免れたものの、万が一当たっていれば確実に死を招く程の威力であったに違いは無い。だが彼は、避ける際に外炎に触れた事により、腕に大きな火傷を負ってしまっていた。

「——ッ」

「ガイル……!」

 痛みを堪え顔を歪めるガイルと、その状況におろおろするセレナ。不気味な笑みを浮かべた男は、背後からじりじりと近付いてくる。

「アイツと知り合いなら尚更生かしてはおけねえな」

 ガイルは剣を握る事が困難だと悟ると、セレナに避難するよう小声で伝えた。それに対し、彼女は小さくかぶりを振る。

「私を庇って怪我をしたのに、置いてなんて行けない……」

 こんな時、母と同じ癒しの力が有れば——

 

 傷を癒す力は無い。けれども、風を変える事はできる筈——先程の様に。

「気でも狂ったか?」

 ロアは眉を顰めた。突然、セレナが詩を歌い始めたからだ。

 

 済んだ声音から紡がれる懐かしい詩。全てを包み込む美しき音色。

 穏やかかと思えば、時に切なく時に強く、詩に合わせ自在に変化する歌声に心揺さぶられる。

 母の温もり、父の抱擁、出会いと別れ、そして旅立ち。優しく温かな愛すべき時を、彼女は様々な音の色で描き上げる……

 それはセイル=フィードに古から伝わる子守唄。

「セレナ……やっぱりお前は……」

「この女、まさか——」

 ガイルも、ロアすらも、その光景に息を呑んだ。

 彼女が歌い始めて間もなく、注意を向けなければ気付かぬ程度ではあるが、足元の焦げ落ちた雑草が息を吹き返し、鮮やかな緑色を取り戻していたからである。

 

 セレナの歌はなおも続く。

 

 風は清らかさを取り戻し、木々はざわめき、空を仰げば雲が徐々に晴れてゆく。

 地表からは無数の光球が溢れ出し、彼女をふわりと包み込む。

 暖かな空間の中で二人が目にしたものは——

 

「光の……一角獣……?」

 ガイルが小さくつぶやく。

 歌い続けるセレナに寄り添う様に、地面に現れた光の魔法陣から生れ出た、しなやかな一頭のユニコーン。

 神々しいまでの輝きを放つ、憂いを帯びた眼の神聖獣が、少女と、そして動けずにいるガイル守る様にして、相対する者へと歩みを進めた。

 それは、誰しもが見惚れるであろう美しき光景である。ただ一人を除いては。

「クソが——!!」

 ロアは頬に伝う汗を不快に感じながらも、先程よりも更に大きな黒炎を作り出し、ゆっくりと自へと向かって来る相手へと力任せに投げ付けた。だが、ユニコーンはその角をもって、黒炎の球をいとも容易く消滅させてしまったのである。

「なん……」

 今、己が出せる最大限の魔力であったが、細い角をたった一振りしただけで——

 ロアは限界だった。その証拠に、赤く爛れた右の手からはぼたぼたと黒の血が流れ、足下の石畳を染めている。

 ガイルも義兄の異変に気付いていた。初めて目にする、余裕の無い形相にも。

 

「セレナーー!」

 

 ふいに、どこからともなく少女の名を呼ぶ声が響き渡る。それと同時に、歌声が途絶えたかと思うと、セレナはぱたりとその場に倒れてしまった。

 咄嗟にガイルが彼女を抱きかかえる。腕に負った傷の痛みは不思議と和らいでおり、光のユニコーンも歌が終わると共に小さな粒子と成り、その場から姿を消す。

 そして、魔族も。

 集う人々に注意を向けている間に、黒の血だまりだけを残して姿を消していたのだった。

「兄貴……」

 

「きゃあ!!どうしちゃったの!?」

 声の主は、小鳥の娘ピィチである。

 彼女は周囲の状況を一見するや否や、ガイルの腕の中で深い眠りに付くセレナの頭上を旋回し、どうしたものかとばたばたしていた。

 ピィチの後に続くようにして、数名の民が戻ってきた。今回の騒動で被害を受けた家の者であろうか。黒焦げになった我が家を前にし、がっくりと項垂れ、途方にくれている。

 魔族——ロアの襲撃は初めてではないとはいえ、こういった現状を目の当たりにすると、申し訳なくて、悔しくて、少年は心が痛んだ。

 家を無くした者達へは、再建まで城の一室を貸し出している。ガイルは住民に貸し部屋の件を伝え、涙を浮かべる小さな子供を優しく一撫ですると、セレナを抱いたまま城の方向へと歩みを進めた。ピィチも二人の後を慌てて追いかてゆく。

 灰と化してしまった思い出は、戻ってはこない……

 ガイルはぐっと、首元のチョーカーに付いた赤玉を握り締め、幼い頃の僅かに残る記憶を思い返していた。

 なぜ兄は、魔族に心を売ってしまったのだろうか。

 セレナの母"ティファナ"は、何かを知っているのだろうか——

 

 

 長廊下奥の一室。

 幻想的な青みを帯びた月明かりだけが、室内をうっすらと照らしている。

天蓋の付いたベッドで深い眠りに付くセレナを、ガイルは縁に座り静かに見詰めていた。先程まで青褪めていた顔色はようやく桃色を取り戻し、窓からこぼれる月の輝きによって、洗練された絹の様な薄紅の髪は、美しい光沢を放つ。

 天使を思わせるあどけない寝顔……この少女が魔族の娘であるなどとは、彼にはどうしても信じ難かった。

 そっと髪に触れてみる。鮮明に蘇る歌声、彼女に宿る強大な魔力。

(全てを知らねばならない……か)

 レダの言葉、様々な想いが脳裏を過ぎる。

 徐に立ち上がり、窓越しに輝く白銀の月を眺める。穢れ一つ無いルビーの瞳には、強い意志と決意が宿っていた。

 

 

 少女は夢を見ていた。

 

 姿見えぬ両親の温かな指に撫でられ、胸に抱かれ、優しく包み込まれる。そんな夢を——

 セレナは数日間眠り続けたままであった。城の神官の力をもってしても、彼女の眠りを覚ます事ができなかったのだ。

 その間、エリオンの意思を継いだガイルの指揮によって、破壊された町の修復作業は素早く実施された。彼の行動力、そして誰よりも前向きで情に厚い性格が、民の心の治療薬となっていたのである。

 騒動から三日後に、セレナはふと目を覚ます。

 隣には安堵の表情を浮かべたレダが居り、その小さな手は優しく握られていた。母にも似た懐かしい温もりを持つ彼女に、少女は生き別れた母を重ねて、次の瞬間強く抱きついていた。

 

 

 

***

 

 

 

「ちょっと~!おいてかないでよね!」

 雲一つない青空の下に、ピィチの甲高い声が響く。

「あ、ごめんねピィチちゃん。てっきり先に行ってるのかと思っちゃった……」

「なんだよ、お前も付いて来るのかよ」

「あたり前でしょ!セレナ一人じゃ心配だもの。アンタと一緒なら尚更ね」

「ああ?何か言ったか?ピィチ」

 ガイルは、セレナの肩の上でジト目でつぶやくピィチを睨み返す。

「もう……仲良くして!」

 セレナの一喝により、一速触発の事態は免れた。

 

 城下町はこの五日程で、完璧とまでは言い難いが、ほぼ元の状態へと戻りつつあった。建物自体が元から簡素な造りであるために、小さな家屋二、三件であれば、皆が協力し合えば再建に時間を要する事もないのだ。

 大通りからは商人達の活気溢れる声が、路地からは子供達の賑やかな声が響く。

「ガイルさま」

 小さな商人の子供が、歩みを進めるセレナ達に近付いて来た。あの時——セレナが始めてこの地へ訪れた際に、ビスケットをくれた子供だ。

「おお、カリン。どうした?」

 足を止め、小さな少女に目線を合わせるガイル。

「これ……ガイルさまが遠くへいってしまうってきいたから、たくさん持ってきたの。きれいなお姉ちゃんと、かわいいことりさんといっしょに食べてね」

 カリンと呼ばれた少女は、甘い香りのする菓子が詰まった布袋を手渡してきた。

「ありがとな」と一言返すと、彼はわしゃわしゃと少女の頭を撫で回した。

 

 二人は今日、旅に出る。

 想いはそれぞれではあるが、行き着く先は唯一つ。

 旅の果てには愛すべき存在が、知らねばならぬ真実が待っている。そう信じて。

 

「お待ちくださいませ……!」

 

 聞きなれた声音が、門を出る寸前の一行を呼び止めた。振り返ると——そこにはレダがいた。