第三話 黄泉の宴

「少しだけ……昔話を致しましょうか」

 ふいに──和やかな空気を、物悲し気なレダの呟きが遮った。

 彼女は抑え切れない感情を子供達に気付かせまいとしている様子だったが、長年共に居たガイルは勿論のこと、セレナとピィチにすらそれははっきりと見て取れた。

 レダはもともと儚げな美人だが、今に至っては声も掠れて消えてしまいそうな程であった。

「突然なんだよ。昔話って」

 セレナが残したパンを口一杯に頬張っていたガイルは、ゴクリと飲み込み徐に問いかける。彼の表情に、つい先程までの笑顔はない。

 それまで窓辺から外の様子を眺めていたレダは、目を伏せたまま二人が座る深紅の絨毯に腰を下ろした。汚れ一つない白のエプロン、濃い鶯色の踝まであるスカートがふわりと広がる。

 そして子供達が見つめる中、彼女はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「今から丁度、十五年前のことですわ……」

 

 十五年前──。

 ≪黄泉の宴≫と称される長期日食により、台地は冷たい闇に覆われていた。

 約十五年の周期で起きるこの日食は、古から続いているセイル=フィード特有の自然現象である。光や熱、力の源でもある太陽を月が覆い、井戸や湖は寒さに凍り付き、草花や農園の果実の殆どを枯れさせるといった、この世界に息衝く生命には辛く苦しい、まさに天からの試練そのものであった。

 それでも力強く生きる者達は、手を取り励まし合いながら、その苦を乗り越えるのである。

 地上に暮らす住民達は少ない食料を分け合い、寄り添い暖を取り、術師は有りっ丈の魔力を火や水と言った生活源のエネルギーに変え、世界を支える。

 獣族やその他の種族達も、皆力を合わせ団結し支え合う……

 そこには普段の生活では感じる事の出来ない、優しさや温かな感情、共に生きる者同士を尊く思う気持ちが芽生え、いつしか黄泉の宴無くしてはこの世界の均衡は成し得ないと、そう気付く者も少なくはなくなっていた。

 ある人は空を見上げ、苦笑いを交えこう言った。

「太陽神ソウルと月の女神ルナーの痴話喧嘩にゃあこりごりだ」と。

 しかし──十五年前の黄泉の宴は、ごく稀に起きる特に長期的なものとなった。

 国に保管してあった食料も底を突きかけ、体力の消耗を防ぐ為にと皆屋内に篭り、民の外出の途絶えた町や村は、絶望を孕んだ静寂に支配されていた。

 魔力、精神力をとうに使い果たした術師達は、総賢者アトラスの名を口々に叫ぶ。伝説上の人物にすら縋らねばならぬ程、皆追い込まれていたのだ。

 暗く冷たい世界で、死をもたらす宴がいつ幕を閉じるのか、誰しもが予測出来ずにいた──……。

 

 フリースウェアーの若き王、エリオン・シルフィーン。

 装飾の施された白鎧、一つに纏めた長いセピア色の髪と、澄んだグリーンの瞳が印象的な青年だ。先代の王が病に伏せた後、子を持たぬ彼によって民衆から選ばれた異例の国王である。

 エリオンはその端正な顔を歪めながら、静かに玉座から立ち上がった。そして、陽の差さない窓辺から眼下に広がる城下町を見下ろして、一言呟く。

「君はアトラスの存在を信じるか?」

 問われた少女レダは、幼いながらも芯の強さを認められ王の側に身を置く事を許されていた。

 僅かに間を置いてから、彼女は若き王へ向け返事を返す。

「わたくしにはどうとも──」

「……そうか」

「けれど、必ずしも居ないとは言い切れませんわ」

 レダはその後、小さく申し訳ありませんと付け加えた。

「救世主、か……」

 エリオンはそう言い残すと、真紅のマントを翻し謁見の間から出て行った。

 咄嗟に名を呼ぶ少女の声は、当人には聞こえていたのだろうか。エリオンの突発的な行動は普段から珍しくはなかった。それに、今は追ってはいけない……何故だかそんな気がして、レダは止めに向かう事もなく、広い背をただ静かに見詰めていた。

 その判断が正しいか否かなど、未だ十台半ばの女中には分かる筈もなかった──。

 

「はぁ~……」

 レダの話に暫く聞き入っていたガイルだが、堪え切れずに大きく息を漏らした。

「俺が産まれた年の黄泉の宴はそんなに酷いもんだったのか」

 ガイルの嘆きにレダはこくりと小さく頷く。

「まだガキの頃だったし、当たり前と言えば当たり前なんだけどさ、記憶に残ってないんだよな。まあ……エリオンの事は覚えてるぜ。俺を助けてくれたやつだからな」

「助けた?」

 セレナが大きな瞳を少年へ向け、問いかける。

「ああ。見ての通り、俺は人族じゃない」

「あら!やっぱりそうだったのね?でも獣人族でも妖精族でもなさそうだしい」

 甲高い声音で割って入ってきたピィチに、ガイルは思い切り眉をひそめた。

「竜人族……って言っても、今となっちゃ生き残りは俺と──」

 ガイルは顔を曇らせた後、一瞬言葉を詰まらせる。

「まあレアな種族みたいだし、他の種族に間違えられてもおかしくは無いけどな」

 口ごもるガイルを不思議に思いながらも、セレナは何も言わずにその話を聞いていた。

「黒竜戦争のすぐ後、竜人族の集落から島に流れ着いた俺を、エリオンが助けてくれたらしいんだ」

「こくりゅう、せんそう?」

 ガイルの口から止めどなく溢れる耳慣れない言葉に、再びセレナは目を丸くして問いかける。彼は少し間を置いた後、少女の髪をわしゃわしゃと撫でて笑顔を漏らした。

「お前は何も知らないんだな?まあ、知らない方が良い事もあるってもんだ。あんな無意味な戦争なんか……」

「いいえ」

 ガイルの言葉を静かに遮ったのは、他でもなくレダであった。

「あなた方には知って頂きたい。いえ、全てを知らねばならぬのです。それが王の──エリオン様がわたくしに託した使命なのですから」

 子供達を真っ直ぐに見詰めるレダ。憂いを帯びた表情は儚くも美しく、僅かに潤んだ瞳の奥には意思の強さと決意が感じられる。

 セレナとガイルは不意に訪れたその異様な雰囲気に、互いに視線を合わせゴクリと息を呑み込むと、再び彼女の昔話へ耳を向けたのである。

 

「エリオン様、お帰りなさいませ……」

 数時間後、レダを含む側近達に出迎えられた王は、一人の女性を抱きかかえ広間に戻ってくる。

「エリオン様その方は!?」

「すまないな。急いで手当てしてやってくれ」

 彼の腕の中で深く眠るその女性は、神々しいまでに麗しい絶世の美女であった。

 折れてしまいそうな程に華奢な身体。白く長い手足に、薄紅色をした透き通る様な長い髪。そして、妖精族の中でも数少ないエルフ特有の長い耳。謁見の間へ続く廊下には、その美貌を一目見ようと、既に大勢の野次馬が群がっている。

 言葉を失いしばし見とれていたレダだったが、我に返るとすぐさま仲間と共に女性を医務室へと運んだ。

 神官や手馴れた術者達による治療が今まさに始まろうとしたその時──彼女は薄っすらと、静かに長いまつげを上げた。

 吸い込まれそうな瞳を前にして、術者の1人が不意に奇声を発する。それは場の空気を一変させる、恐怖に満ちた声音であった。

「こ、金色の瞳……ッ!この女、魔族なのか!?」

 

 「不思議だった……」

 エリオンは、自身の側近であるうら若き少女レダにのみ、後にこう話していた。

「寂れた広場で澄んだ歌声が聴こえたんだ。その音色の中に彼女……ティファナがいた。民の様子を見に行くつもりが、すっかり聴き入ってしまったよ」

 彼の側に就いてそう長くは無いが、始めて目にする表情であった。

「彼女の周囲の花は鮮やかに咲き誇り、水は透き通り、息吹を取り戻していた」

 勇敢で威厳溢れる彼からは想像も出来ない程に、うっとりとした眼差しと口調。

「ティファナこそ……アトラスに代わるこの世界の救世主となってくれるかもしれない」

 レダの心は、なぜだかざわめいた──。

 

 宴が幕を閉じたその翌年、エリオンとティファナの間に一つの生命が芽生えた。

 ティファナの不思議な歌声により、長期に渡る宴で病に伏せた者達は救われ、草花や農園の果実などの全てが枯れ落ちる以前の状態よりも健やかに育った。

 多くの民が淑やかで慎ましい彼女を慕い、崇め、二人の婚礼に賛同したのである。

 しかし一方では、陰でこう罵る民や家来も少なくは無かった。

「血迷った王の統べる国に、未来などあるのか?」

「若き王は、美しき魔族の女に魅了されているのだ」と。

 金色の瞳は純血の魔族の証。

 魔族……全ての種族と相容れない、死や闇を司る者達。

 エリオンはそう言った良からぬ噂を耳にする度に、愛しき妻を庇うように声を上げた。

「いかなる種族だろうと、信じ愛する心に偽りはない。私とティファナが、揺ぎ無きその証明となってみせよう」

 彼に寄り添う女王ティファナは、ただ静かに憂いの表情を浮かべるだけだった。

 そして瞬く間に黄泉の宴から三年の月日が流れ──

 その年、セイル=フィード全土を揺るがす惨劇≪黒竜戦争≫が突如として勃発するのである。