第四話 黒竜戦争と若き王

 その日は朝から薄気味の悪い暗雲が空を覆っていた。

 

 美しき女王ティファナ。彼女は、城の廊下奥の一室で赤ん坊を抱いたまま、室外へ出る事は無かった。

 食事もろくに口にせず、灯りの無い薄暗い部屋に篭る彼女を、不気味に思う者も日に日に増えていた。周囲の目や、水面下で広まる噂の所為も有るのやも知れない。エリオンが遠征へ出ている間は、そういった日も少なくは無かった。

 今日は愛する夫が城へ帰還する日。だがティファナの表情は、窓から眺められる空の様に曇っていた。

「どうか……どうかこの子だけは——」

 そう小さく呟く彼女の頬に、真珠色の涙が零れ落ちた……

 

 

 雷鳴が響き渡る。

 光を遮る厚い雲は、さながら黄泉の宴の再来かと思わせる程に、台地を灰色に染め、湿った空気を呼び、人々の心に形の無い不安感を宿らせる。

 広野を駆ける、エリオン率いる兵団一行。辺りは昼間だというのに薄暗く、普段のセイル=フィードとは別の世界の様でもある。

 彼は慣れた手付きで手綱を操作し、騎乗する馬の足を速め、後に続く騎馬兵へ合図を送った。

「雨でも降りそうだな……急ごう」

「はい!」

 銀の鎧に身を包んだ兵士達は、声を一つにし返事を返す。

 嫌な予感がする……そう感じていたのは、エリオン一人では無かった。何かが起きる前兆として、この世界では決まって風の音が変わるからである。

 そして、間もなく彼らの心に宿る不安は現実のものとなるのであった。

 

 一行がフリースウェアーを眼下に一望できる丘陵まで進んだ、まさにその時——

「エリオン様、あれは一体?」

 一人の兵が、国の上空を指差し前隣に並ぶ彼に告げる。不意に呼び止められたエリオンは、何事かと視線を向けると、険しく眉を顰めた。

 無数の黒鳥……いや、そんな小さな群れではない。“それら”の大群は、城へと降下するにつれ異様な姿を露にしていった。

「な……竜だと!?それも黒竜か!!」

 漆黒の鱗で覆われた爬虫類にも似た巨体に、背には蝙蝠を思わせる大きな翼。頭部には二対の螺旋状の角が生えており、遠目からでも闇の使者や悪魔を髣髴とさせるに十分な形相が見て取れる。

 竜族の中でも最も強力であり、滅多に姿を現す事のない黒竜が国へ——いや、フリースウェアーを中心とした周辺一帯へ舞い降りて行くその様を、エリオンはただ愕然と見詰めていた。

「王!ドラゴンだけでは有りません!あ……あれを!!」

「なに——!?」

 エリオンは更に息を呑んだ。

 視線の先に映る異形の数々。黒竜を取り巻くように現れたのは、灰色の鱗を持つ無数の邪竜や、キメラ等の有翼魔獣。後者を操るのは他でもない、ダークエルフや実体を持たないファントム等の上位魔族である。

 その光景は、平穏なセイル=フィードからは微塵も想像できぬような、殺伐としたものであった。

「なぜ魔族が……魔族?」

 エリオンは、ふと我に返り顔を上げる。

 なぜフリースウェアーに突如魔族が襲来したのだろうか。普段は滅多に地上に姿を現す事の無い種族が。

 分からない。しかし、唯一分かっている事実、それは——

 

「エリオン様!!」

 

 次の瞬間エリオンは駆け出していた。部下の声には耳も向けず、混沌の中心へとただがむしゃらに。

 愛する者達を守る為に……

 

 

 城下町は騒然としていた。

 黒竜の漆黒の炎が、邪竜の爪が、魔族達の妖術が、容赦なく猛威を振るい混沌と混乱を招く。攻撃を受けた家屋の殆どが一瞬で灰と化し、逃げ惑う人々によって大通りが埋め尽くされる。

 悲鳴や子供の泣き声が、町の至る所から響き渡る。国の有能な兵士達ですら、それらの脅威から民を避難させるのに精一杯で、反撃すらままならない状態であった。

 無理も無いだろう。 この急襲を予想していた者など、誰一人として存在しなかったのだから。

 住民達は皆が皆、身の安全を確保できるであろう城内へと、波の様に押し寄せた。広いホールはいっきに人で溢れかえり、そこでもなお混乱は続いていた。子供だけは無事にと、神官へ託す者。 泣きじゃくる者や、ただひたすら神に祈りを捧げる者。我先にと自分勝手に振舞う者も少なくはない。

 レダを含む女中や召使達は、負傷した者の手当てや看病に手一杯であった。

 彼女は傷を負い横たわっている少女の手をぎゅっと握り締め、黒目がちな瞳を潤ませながら「救世主は、きっと現れるから……」そう優しくささやいた。

 

「エリオン様!!」

「王!ようやっと、お戻りになられましたか……!」

 ざわめきの中、ホールに群がる民衆の後方から、蒼白のエリオンが姿を現した。

「エリオン様、指示を——エリオン様——」

「王様、お助けください——」

 様々な言音が王の名を呼び、縋る。だが哀しい哉、彼の耳にそれらの嘆きが届く事は無い。

 エリオンはその場に妻が居ないと知るや、血相を変え、人の波を荒々しく掻き分け前進した。王としては信じ難い行動、そして形相に、人々はただ呆然と消えゆく背中を見届けるしかなかった。

「王は……俺達よりも魔族を選んだと言うのか」

 レダには微かに聞こえていた。そうぽつりとつぶやく誰かの声が。

 

 黒竜や魔族達の猛攻は、数時間後に突如として幕を下ろした。

 闇の使い達は地上を荒らすだけ荒らした後、一斉に空の彼方へと舞い戻ってゆく。皆、嵐の様に去って行く黒の群れを見詰め、ただ静かに立ち尽くしていた。それと同時に、空を覆っていた禍々しい雲は晴れ、普段通りの橙色をした美しい夕日が、荒れ果てたフリースウェアーを優しく包み込む。

 民は脅威が去った事を確認するや否や、自らの家々の方向へと一目散に戻って行く。ホールにはまだ数人が残っていたが、負傷のためか喪心のためか座り込み動けずにいる者ばかりで、中には奇襲で受けた傷ではなく、同じ民によって怪我を負った者も居るようだった。

 そこに、エリオンは戻ってきた。

 魂でも吸い取られたのではと疑う程に、青褪めた屍人の様な顔色。焦点は合っておらず、普段の爽やかで勇敢な好青年の面影など、どこにも見当たらない。

 その場に居た者達は、ちらりと横目で王の様子を一見し、静かに目を逸らす。

「エリオン様……」

 レダが駆け寄り名を呼ぶ。彼の腕には、布に包まれた赤ん坊が抱かれていた。

 そこに──女王の姿はない。

「守れなかった……」

 エリオンはそう一言、消え入りそうな声でつぶやくと、レダのすぐ横を空気の様に通り過ぎていった。

 

 

 フリースウェアーと周囲一帯の被害はそれは酷いものであった。

 城壁などは無意味なもので、家々はほぼ壊滅。平地に至っては無数の巨大な亀裂や窪みが生じ、草木は朽ち果て、見るも無残な光景となっていた。流浪の商人の話では、馬車で丸一日掛かる港町シエルにまで魔族の手は及んでいたと言う。

 人々は数日の間途方にくれていた。だが、復興の旗揚げをしたのは他でもない、エリオンであった。

 彼は王でありながら誰よりも身体を張り、進んで復興の手助けをし、指揮を執った。襲撃後の様子などまるで虚像であったかのように、清清しさを取り戻していたのである。

 彼の言動に反発する者も少なからず存在してはいた。あのホールでの状況を思い返せば無理も無いだろう。しかし、町に活気が戻ったのは事実であったし、それ以上に長年築いていた信頼は大きかった。

 エリオンは自らの看病に当たっていたレダにのみ、全てを語っている。だからこそ彼女の表情は、その後も晴れぬままであった……

 

 

 一月が怒涛の如く過ぎ——

 

 国の皆が一丸となった成果もあり、半壊した城下町は徐々に回復していった。

 各地では、未だ魔獣や魔物の被害を耳にする。中には低級魔族の存在も確認されており、激しい攻防となる地域も少なくは無いようだった。

 勿論フリースウェアーも例外ではなく、この一月の間も幾度となく襲撃にあってはいたが、エリオンの的確な指揮により被害を最小限にとどめる事が出来たのである。

 民の心の傷も少しずつではあるが癒えてゆき、活気を取り戻し、小さな商店も増え、以前の城下町の様子へと戻りつつあった。

 

 

 その日、エリオンは旅支度をいていた。腕にはニ歳になり、母親の面影を残した美しい愛娘が抱かれ、眠りについている。

 彼は言った。

「全ての元凶を絶ちに向かう」と。

 王不在の国へ、いつ再び襲撃が起きるかも定かではない。けれど魔族の血を引いた子供を、国へ残しておくのも不安である。民衆の意見は賛否両論ではあったが、彼が数々のジレンマの中で決めた答えであった。

 ティファナ……

 彼女と出会わなければ、この世界は穏やかなままだったのだろうか。あの時私が指揮を執っていれば——

 民の前では前向きに振舞う反面、嘆き、苦悩する彼を、レダは一番側で見てきた。

 

「エリオン様、これを……」

 城を去る間際のエリオンをレダが呼び止める。彼が手渡されたのは、小さな水晶の付いた手作りのペンダントとイヤリングだった。

「魔除けの効果もありますわ。二対有るのでこの子へも……お守りになさって下さいませ」

「レダ……いつもすまないな」

「いつか必ず、皆が分かり合える日はやってきますわ」

 神官や兵士達が見届ける中、エリオンは愛娘を抱き、マントを翻し去って行く。

 青く澄み渡った空の下へと——

 

 

 

 レダはそう締めくくり、昔話の幕を閉じた。