第一話 小さな願い

 夜の薄闇に覆われた広大な森の上空を、羽根の擦れる乾いた音を響かせ、無数の白鳥が一斉に羽ばたく。

 直後——飛び交う群がりの丁度真下から、轟音にも似た鈍い金属音が響き渡った。

 

 金属音のその主は、少女にとって異形である。

 深い草叢に身を潜め息を殺しながら、首元に光る水晶のペンダントを強く握りしめる。震える体を覆う簡素な布服、淡い薄紅の腰まである髪は、既に元の色が判らなくなる程に葉や土でぼろぼろに汚れていたが、今の彼女にはどうでも良い事であった。

 草越しの〝それ〟は自らの力量を示すかのように、人一人の背丈は優に越えるであろう巨大な得物を軽々と持ち上げ、数本の木を薙ぎ倒した後、まだ若葉の残る地面に勢いよく突き立てた。

 

 魔獣。

 そう呼ばれる生物の存在は、彼女自身も以前から森の仲間達に教えられていた。数年前までは、神樹と称される巨木〝リース〟の守護するこの森には存在しなかった生物。森の民であるリスやウサギ、小鹿などの動物達とは似て非なる、血に飢えた恐ろしい獣。

 魔獣が頻繁に姿を現すようになって以来、リースの森は大きく変わってしまった。美しさと穏やかさでは、セイル=フィード随一と謳われる場所でもあったのに——

 

 荒い息と地鳴りにも似た足音と共に、身を潜めているこの場所から去っていったそれも、夜の森の暗さに加え一心不乱な状況であっても、容易に異形と判断できた。

 雄牛にも似た頭部に、浅黒く強靭な人型の体。鋭い爪を持つその手には、木の棒の両端に鋭利な扇形の鉄塊を備えた得物。身の丈に至っては、華奢な少女の数倍は有していただろう。夜になれば、森の民が魔獣の襲撃から逃げまわる事も、最近では珍しくはなくなっていた。

 だが今回に至っては、今までと比べ物にならない程の殺意と力量の持ち主である事は明らかであった。以前に遭遇したどの魔獣よりも……

 そう、少女は幼心に確信していた。

 

 徐に立ち上がり、エルフ特有の長い耳を傾け周囲を確認する。月が雲に見え隠れし、深い森全体を薄闇が覆ってはいるが、慣れた場所ゆえに闇の中での行動も然程困難ではなかった。先程の殺伐とした空気もあらかた遠のいたようにも思える。

 ほぅ、と深く息を吐き、胸を撫で下ろす。

 

「セレナー!」

 

 一時の静寂を打ち払ったのは、聞きなれた甲高い声音。一羽の若草色の小鳥がどこからとも無く姿を現し、慌てた様子で少女の右肩にちょこんととまった。

「ピィチちゃん、良かった……大丈夫だった?」

「アタシは空に逃げたから平気よ!でもセレナが……」

 促されるように視線を落とすと、少女――セレナの足首は、大きく負傷して血が流れ出ていた。

「あ……逃げるのに必死だったから、気が付かなかったよ」

 舌を出しておどけた様子に、小鳥の娘ピィチは「まったくもう」と息を吐いた。

 彼女達の再会に和やかな時間が流れる。しかし、悲しいことにそれは束の間に過ぎなかった——

 

 禍々しい空気が、煙幕の如く地面一帯を徐々に覆ってゆく。風も、木々も、森全体が一斉にざわめきだし、その変化にいち早く気がついたのは、森の民であるピィチだった。

 彼女が注意を促そうとしたその刹那、足首の出血を防ごうとしゃがみ込んでいたセレナの頭上を、轟音を響かせ"何か"が通り過ぎて行った。それとほぼ同時に、耳を劈くような鋭い金属音が木霊したかと思えば、次の瞬間、背後の大木がギシギシと音を立てて倒れ落ちた。

 

 ゆっくりと、恐る恐る顔を上げるセレナ。大きく見開かれたエメラルドグリーンの瞳には、息を荒げ、殺意を剥き出しにした先程の異形の姿が映し出された。

 一度は逃した食料を、次こそは必ず捕らえようと考えているに違いない。いや、もともと魔獣と言う生物に、それ以外の感情などは無いのかも知れない——

 様々な想いが、一瞬にして小さな少女の脳裏を過る。小鳥の娘が空中を激しく旋回しながら、いつも以上に甲高い鳴声で何かを騒いでいるが、言葉として耳に入る事はない。

 

 恐怖。

 

 この感情を今ほど程強く抱いたのは、セレナにとって初めてであった。

 物心ついた時にはこの美しきリースの森で暮らしていて、平和で幸せな生活が普通なのだと、森の皆が家族なのだと、そう思って今まで生きていた。けれど、今日でそれもお終いなのかもしれない。

 最後に、最後にもう一度だけ——

 

(お父さんとお母さんにあいたかった……)

 

「セレナ!!」

 目が覚めるようなピィチの声が木霊し、涙に濡れた瞳を上げた次の瞬間。 

「その娘に近付くんじゃねえええーーーー!!」

『ギャアアアァァ!!』

 肉を切り裂く鈍い音が、大地を揺るがす咆哮が、一斉に周囲一帯に響き渡る。

 突如目前で繰り広げられる攻防に、傷の痛みも忘れて釘付けになるセレナ。

 得物を手放し、更に深手を負った魔獣は、隆々とした腕を乱暴に振り回しながら、自らの踝に刃を付きたてた相手へ反撃を試みる。

 しかし相手は、月明かりにも似た銀の髪を風になびかせながら、身体周り程の片腕から繰り出される攻撃をひらりとかわして―― 

「お前はお前らの家に還りやがれーーーーッ!!」 

 異形の頭上に、全体重の掛けられた剣が一気に振り下ろされた。

 言葉にもならぬ奇声を揚げ、大木の様な巨体は、轟音と共に地面へと倒れこむ。

 

 程なくして——子供達が静かに見つめる中で光輝く霧と化した黒き獣は、一陣の風と共に空へと舞い上がっていった。

「大丈夫か!」

 駆け寄り差し伸べられた手に、よろよろと体を預け立ち上がるセレナ。

「ありが……とう」

「おっ、よかった。言葉、通じるんだ」

 少年は真紅の瞳を細めた後、緊張の糸が解けたかのように「ぷは~」と大きな息を吐く。戦っている最中には気が付かなかったが、彼も体の至る箇所に軽い怪我を負っていた。

 不安げに覗き込むセレナに、問題ないと言わんばかりに歯を見せ苦笑いを返す。

「ガイル!」

 まもなく、軽鎧に身を包んだ数人の兵士が、二人の元へ駆け寄ってきた。

「無事か!?」

「ああ、なんとか。お前らの方も平気だったみたいだな」

「数匹"駆除"は済んだが……ところで、その少女は?」

 ガイルと呼ばれる少年の隣に立つ、薄汚れた長耳の少女に目をやる兵士達。当のセレナはというと、見慣れぬ光景やら急な疲労感やらで、その場に呆然と立ち竦んでいた。

 

 エルフといえば、あらゆる種族の中でも最も神秘性と美貌を備えている妖精族であり、このセイル=フィードでも珍重されている数少ない種族であった。そういった概念を持つ人族としては、彼女の酷い姿に疑いを抱く者も出てくるだろう。

 四肢は小刻みに震え威厳も風格も無く、弱弱しく痩せ細った身体を泥だらけの布切れが覆っている。無造作に伸びた髪には葉や草が絡まり付いており、素足は土や泥にまみれ……そして痛々しく負傷していた。

「なあ?」

 兵士達の間に広がる微かなどよめきを打ち破ったのは、他でもないガイルと言う少年である。

「ここは危険だ。夜になれば今みたいな低級以上の魔獣だって湧いてくるようになっちまった。一応、国の兵士が数年前からこうやって巡回してたんだけど、この森にエルフが……あんたみたいな女の子が一人でいるとは思わなかったぜ」

「一人じゃないわ!リース様も動物達もいるもの」

 突如間に割って入ってきた小鳥の娘に、ぎょっとするガイル。

「しゃべれる鳥!?」

「なによ!文句でもあるの!」

「い、いや、ねえけど……」

 小鳥の姿をした精霊とでも解釈すれば、この世界ではさほど不思議ではないのだろうが、その場にいる一国の兵士達ですら、誰一人として会話をする鳥を見た事はなかった。

 

「まあ、話を戻して、だ!」

 ガイルはコホンと咳払いをし。

「怪我してるみたいだし、一度俺達の国に来ないか?ほら、大して距離があるわけでもないし。もし、それでもここが良いって言うんなら、治療した後でも戻れるからさ」

 降ってわいたような彼の発言に、次はセレナと兵士達が目を丸くする。

「ガイル殿!?」

「勿論、来たくないって言うなら無理に連れて行かないから安心しろよ。それに年も同じくらいだし……そうじゃなくたって、人として"普通"は心配するもんだろ?」

 ガイルが、ぽかんと口を開いた兵士達にちらりと目をやると、彼らは渋々言葉を飲み込んだ。

 

 かなりの間を置いてから、セレナが小さく呟く。

「あの、戻ってきても良いなら……」

 セレナ自身、外の世界に一切興味が無いというわけではなかった。

 森には共に育った家族達がいるが、本当の両親はこの世界のどこかにいるかも知れないし、年を重ねるにつれ、日に日に二人に逢いたいと思う気持ちが強くなっていったのは事実。

 しかし、ここでの彼女の選択は単なる会話の流れであり、セレナにとっても——また、ガイルにとっても、それ程重要な出来事ではなかった。

「セレナが行くならアタシも行くわッ。この子一人じゃ不安だもの」

「もう、ピィチちゃんってば」

「よし!じゃあ、決まりだなセレナ!」

 妖精族と似た尖った耳をぴこぴこ動かし、犬歯を覗かせ嬉しそうに笑顔を浮かべる少年につられ、少女にもようやく柔らかな笑みがこぼれた。

 セレナも、長い付き合いの兵士達も、当のガイルでさえ、新たな感情が芽生え始めていた事には未だ気付いてはいないのだろう。

 

「俺はガイル・フリート。ふたりとも宜しくな!そうだ、城に着いたら美味い飯でも食わせてやるよ!あと……その、服も替えてもらおうぜ?」

「うん。ありがとう……ガイル!」

 ふいに繋いだ手。高鳴る鼓動。

 少しずつ動き出した歯車の存在を、今はまだ誰も知らない。

 

 雲は晴れ、空には白銀の月が輝いていた。